日本に帰ってきていつも思うことですが、日本人ほど健康に気をつかう国民もいないでしょう。
まさに“国民総健康オタク”と呼べると思います。
テレビや雑誌を見れば、毎日のように健康に関する話題や番組であふれています。
その腰痛は、実は内臓から来ている!?
立ちくらみに潜む重大疾患とは?
こんなセンセーショナルな見出しをつけて視聴者をあおり、白衣の先生がそれらしい解説を加えます。
自分に当てはまる項目がひとつでもあれば、「ああ大変だ」と眼を皿のようにして食いつき、
医者がバナナがいいと言えば次の日にはスーパーの棚からバナナが消え、トマトがいいと言えばトマトジュースを買い占め、やれココアだ!キノコだ!ヨーグルトだ・・・
もちろん健康に気をつかうことは悪いことではありませんし、日本人が長寿世界一なのも、こうした一人ひとりの健康意識の高さの現われなのかもしれません。
しかしこうした情報が氾濫している影で、健康に対して強い強迫観念のようなものを刷り込まれている人もなかにはいます。
毎日、納豆をかかさず食べなければ気がすまない、ですとか
水を2リットル飲む人、サプリメントを何十粒と飲む人ですとか、、、あなたのまわりにもいませんか?
これら、たしかに身体の健康に効果があることなのかもしれません。
でも魂の観点から見ると、精神的健康はどんどん損なう一方でしょう。
人間はなにかに強く依存してしまうと、段々と生活バランスを崩していきます。
良かれと思って肥料や水を与えすぎた植物が枯れてしまうように、ものには適時適量と呼ばれるバランスを維持するための帯域があるのです。
しかし強い思い込みは段々と自意識を麻痺させ、あまりにも不自然な生活習慣を日常化していきます。
健康に良いと思ってやっていることが、心と身体トータルでみたときに、はたして本当にプラスになっていることなのか?
ここはしっかりと見極めなくてはなりません。
と、ここまで健康に関してのお話しでしたが、
こうした強迫観念や原理主義的な“思い込み”がもたらすマイナスは健康以外のこと、普段の生活のなかにも当てはまるのです
○○は、こうでなくてはいけない。
こういう選択幅のない思い込みが、他人と軋轢を生み、自分の中の余裕をなくしていきます。
答えは一つだと決め付けてはいけません。また他人の示した答えに対し神経質に反応することもありません。
もっと適当でいいのです。
日本人はキッチリしているので『適当』という言葉に対し、強い嫌悪感を覚える人が多いと思います。
でも辞書で調べると『適当』には3つの意味があります。
- -----・------・------・------・------・------
① ある条件・目的・要求などに、うまくあてはまること。かなっていること。ふさわしいこと。また、そのさま。「工場の建設に―な土地」「この仕事に―する人材」
② 程度などが、ほどよいこと。また、そのさま。「調味料を―に加える」「一日の―な仕事量」
③ やり方などが、いいかげんであること。また、そのさま。悪い意味で用いられる。「客を―にあしらう」「―な返事でごまかす」
(大辞泉より)
- -----・------・------・------・------・------
③のいいかげんであること、適当をこの意味で捉えてはいけません。
①と②で考えてください。
『ものごとは程度がほどよければ、それでよい。』
このくらいのアバウトさでいいのです。
完璧な仕事、完璧な人間関係、完璧な健康、完璧な生き方
そんな完璧な答えをもった人は一人としていません。
にもかかわらず人は完璧を目指して、なにかに依存し、心と身体にギチギチと詰め込んでいきます。
それがどんなにバランスを崩しているとも知らずに。
毎日納豆を食べなくてもいいのです。気が付いたら、身体が欲したら食べればいい。
ひとつの考えに凝り固まってしまわないように、柔軟な意識を持てれば人は心身ともにもっと健康でいられます。
ほどよく生きるという適当主義
これこそが健康においても実生活においても、最もバランスの取れた生き方なのです。
東京より
白石