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あなたの人生は何秒?

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さあ、気がつけば2015年も終わろうとしています。

どうも年々時が経つのが速く感じるようになってきて、あっというまに歳をとっていくのがしゃくですが、まあ仕方ありませんね。
良くとらえれば日々充実しているということでしょう(笑)


そうそう先日25日のクリスマスの夜は、「魂の大実験」のラストナイトでした。
今まで毎月実験に参加くださった皆様、感想をフィードバックしてくださった皆様、どうもありがとうございました。
おかげさまで素晴らしいクリスマスプレゼントになり大満足しています。
実験結果をまとめましたら、またこの場で発表させていただきたいと思います。


さて今日のエントリですが、当初は『よい出会いは魂がおしえてくれる part5』にしようかと思ったのですが、せっかく1年の終わりということですから、今年の締めになるような、そして来年のスタートを心新たに切れるような、そんなお話をさせて頂こうかと思います。



突然ですが、あなたの人生は何秒間あるのか?

考えたことありますか?

あなたが生命体として今存在しているということは、おぎゃーと誕生したその“瞬間”が確かにあったということです。
そして、その生命が幕を閉じる“瞬間”も、未来にもちろんあるのです。

たとえば世界のどこかで2016年の1月1日00時00分00秒に誕生した赤ちゃんがいたとします。
また仮に、その子は2096年1月1日00時00分00秒で人生を終えました。ぴったり80歳の人生でした。

80年という時間は、月数に換算すると960ヶ月、日数だと29,220日、時間で701,280時間、分で42,076,800分、秒で2,524,608,000秒です。

これ凄いと思いませんか?すべての生命の長さは1秒と狂わずにしっかりと存在し、記録できるのです。
人の場合は桁が多いのでピンと来ないかもしれませんが、人生80年だとすると秒換算では約25億秒ということですね。

これは言うなれば、生まれた時にもらった25億枚の人生体験チケットを1秒に1枚(1ライフ)ずつ切り離しているということです。

今こうして僕のブログを読んでいる瞬間も、寝ていても、食べていても、働いていても、ボーとしていても、僕も皆さんも1秒に1ライフずつ人生体験チケットは減っているのです。

もちろん今回は例として人生80年としての計算ですが、神様が生まれたときに自分に何ライフくれたのかは、チケットが無くなるその瞬間までわかりません。もしかしたらあと10枚で無くなってしまうかもしれないのです。

まあそれは極端かもしれませんが(笑)
そういう風に考えてみると、今この瞬間の1秒の価値がとたんに高いものに思えてきますよね。

世の中の人はなぜか、自分だけはいつまでも平穏無事に過ごせるものだという根拠のない自信にあふれた人が多いのです。
時間はまだまだ無限に流れてくる、そう思い込んでいるのです。

ですから“今”という1秒に価値を見出しません。
「今」できることは「明日」に、明日になったら「明後日」に、そして「いつか」へ・・・

昨日の自分も、今の自分も、明日の自分も、1年後の自分も並列に考えています。
同じ自分だと信じています。


もしあなたがそういう考えだとしたら、それはとんでもない間違いです。

生命体は1秒ごとに生まれ変わっていると考えなければなりません。

1秒前の自分と、今の自分はまるで違う自分。1秒後の自分もまた違う自分です。
見た目も考えも機能的にもほぼ変わっていないように見えますが、いえいえ確実に1秒ごとにライフ(生命力)を減らしながら劣化し、生まれ変わっているのです。

新鮮なフルーツを2~3カ月置きっぱなしにしていたらどうなりますか?
もし2つを並べることが出来たなら、その姿かたちだけでなく、臭いも味も比較にならないくらいに変化していることでしょう。
これはフルーツという存在が、1秒ごとに1ライフを浪費しながら、確実にその生命力を低下させていったからです。


しかしライフの消費は生命体としてこの世に誕生した運命といえますから、僕たちは受け入れなければなりません。

その上で、限られた時間をどうとらえて、どう使うのか?
ここは各々の考え方ひとつに任されています。


「別に自分は何とも思わない。自然にその日が来るのを待つ。」

たしかに人間、死ぬときは何も持っていけません。
そう考えると、生きているときにあくせくしても結局は“無”ではないか。という考えもあるでしょう。
これも生き方です。


「与えられた時間を自分なりに有効に使い、なにかしら生きた証を刻みたい。」

物やお金はたしかに持っていけないですが、人生をまっとうしたという誇り、プライドは持っていくことが出来ます。
今に目的を与えて一生懸命に生きてみる。そして何かを成し遂げる人生を歩みたい。
これも生き方なのです。


僕が最終的に他人の時間の使い方に口をはさむことは出来ませんが、色々と考える切っ掛けは与えることが出来ます。
そして良いと思える方向へ導いてあげるような、遠回りなヒントくらいは与えてあげれるでしょう。


僕の2015年は、あっという間に過ぎ去っていきました。
約3120万ライフ消費した計算になります。

もちろん皆さんも約3120万ライフ目減りしました。

さてこの3120万秒、僕はしっかりと意味を持って使えたでしょうか?
皆さんはどうでしたか?

そんなことを考えながら、2016年を厳かに迎えようと思います。


みなさん善いお年を
来年またここでお逢いしましょう(笑)



東京より
白石

魂が健康であれば人生の谷は苦ではない

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11月26日の実験に参加したみなさんはお疲れ様でした。

実は僕は25日~今日まで私用でインドに行っていました。(今回の記事は帰りの飛行機の中で書きました)

インドは今回で2回目なんですが、前回は10数年前だったので経済発展のスピードに驚かされました!
ムンバイにそびえ立つビルの高さや数はもちろんのこと、走っている車や、人々の服装もソフィスティケートされてきていて、今、世界で一番勢いがある国だと実感しましたね。

今回の旅は、大都市ムンバイからとある地方町への2泊4日の弾丸行程だったのですが、26日はとんでもない田舎に滞在していたもので(笑)、そこはネット環境もない上に電波状況も悪く、まったくのお手上げ状態でコメントを書き込むことが出来なかったのですが、メールやコメントを残してくれた方々ありがとうございます。

次回はクリスマス12月25日が最終実験日になります。
クリスマスの夜に無欲になり「皆の幸せを願う」という、1年の終わり方はいいですね。
僕も一参加者として願おうと思います。


さて、このSSSを開設してから3年を過ぎ、いままで魂のことや、生き方のヒント的なことなどをあれこれ書いてきました。

最近は「本当に生き方が楽になった。」「いまが一番笑ってすごせています。」などといったメールをたくさん頂けるようになってきて、「忙しいなかでも何とか続けてきて良かったな。」と本当に思います。

僕のブログは文章が多くて読むのも大変かもしれませんが、それでもしっかりと読んでくれて、自分の中で咀嚼し、普段から実践に移してくれている人は、確実に魂の硬化を遅らせることが出来ていて、本当に健康を取り戻してきているんですよね。

たとえば、湧き上がる怒りを治めるですとか、魂が危険にさらされるような場所に近づかないですとか、ケチな思考に捕らわれないようにするですとか、普段の生活の中で魂のために実践できることは意外に多いものです。

何も気を付けてない人と年単位で比べてみれば、そういった何気ないことの積み重ねが大きな開きとなっていくのです。


人生の道は平坦ではありませんから、誰にでも良いことも悪いことも起こります。

今現在、生きていくことが苦しいと思っている人がいるならば、それは谷間にいるからです。
暗い谷底だからと下を向き、とぼとぼ歩いては立ち止まり、後ろを振り返っては後悔し、またとぼとぼ歩き始める。

だからいつまでも谷を抜けないのです。

魂が健康な人は、谷間を歩いていても下を向きません。
頭を上げてしっかりと先を見ることが出来ます。魂がタフになり簡単にめげなくなっているのです。

そして“生きる”ということを前向きにとらえるようになっています。
最悪の状況であっても自分が進むべき山の頂が見えているので、恐怖もなく、明日に希望があります。

同じ谷間にいるとして、頭を上げるか下げるかの差ですが、この差が実はとても大きいのです。

しかし魂が弱ってくると、こうしたことは頭では分かっていても実践できなくなっていきます。
身体が重く、行動力は薄れ、気持ちばかりが焦ります。
過去の良かったころの自分の記憶と今の自分の差に苦しみ、すべてを投げ出して終わらせたいとさえ思うようになると、それは魂がいっぱいいっぱいの証拠です。

魂が健康であれば、前へ進むために一歩を出すという人生の基本でつまづくことはまずありません。特に意識して考えなくても実践できてしまうのです。

魂の健康の差が、人生において苦しみの量や、笑顔の数を左右してしまうということです。


では現状、魂の健康が保てていて、特に悪いこともなく平穏無事に過ごせている人は何も気を付けることはないのでしょうか?

いえ、暗い谷間を抜けて、明るい山道を歩いているからと言って油断してはいけません。

今が好調な人が足を滑らせてしまうこともあるのです。

その一番の原因、それは“欲”です。


人は暗い谷に下った時には気分がすぐれず、自分ほど不幸な人間はいないとさえ思います。
しかし山の上に出ると、谷での出来事のことなどすぐに忘れて、気分が高揚し、自分はもっと高みに行けるのではないかと思います。

もちろん向上心をもって進んでいくことは悪いことではありません。
ただ、欲を出して無理に高みに登ろうとすると足元がおろそかになり、簡単な窪みで足を取られ谷底に転げ落ちます。
高い山と深い谷はセットですから気をつけねばなりません。

人生において大切なことは、今の1歩を確実に踏みしめることです。
何事にもケチにならずに、今自分に出来ることを疎かにせずにこなすこと。


人生の高みというのは気付いたらいる場所であって、行こうと思っていく場所ではありません。


台湾上空より
白石

なぜ人は働かないといけないのか?

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こんにちは、白石です。

バリ・アグン山への巡礼も終わり、今は毎日をいそがしく過ごしています。

そんな折、ある相談者の方から、仕事に張りあいが持てないという相談を受けました。
普段から仕事に関する相談は数多く受けるんですが、大きく分けると3つの相談が大多数をしめます。

現状の仕事や職場に満足できないという悩み
新しい仕事や職場への転職や転勤に関する悩み
仕事がない、働く意欲がわかないという悩み

この3つが仕事についてのもっとも多い悩みです。

そこで今回の『人生の智慧』は、“はたらく”ということについて考えてみたいと思います。


さて、読者のみなさんはどんな仕事をしているのでしょうか?


働いている人、働いていない人、いるかと思いますが、そもそも“はたらく”とは人間にとってどういうことなのか考えたことはありますか?

生きていくために、食べるために必要なものという位置付けは理解できても、それ以外の意味を考えたことはあるでしょうか?

「食べていくこと以外に働くことの意味などあるの?」と考える人も多いかもしれません。

たとえば宝くじで大金が手に入ったら、仕事を辞めてしまってのんびりと残りの人生を過ごしたい。
こういう夢を追って、宝くじを買い続けている人も多いことでしょう。

もちろん偶然に大金を手にしたりあるいはすでに持っている人が、仕事をせずに毎日を過ごしたいと考え、それを実践することができたとしても、人は仕事をすべて手放すべきではないと僕は考えます。

その理由ですが、
『人間にとって働くということは、呼吸とおなじように大切な生命活動のひとつである』という仮説を僕はもっているのです。

どういうことか説明します。

まず人間が生きていくために必要な最低限の生命行動を考えてみます。
それは呼吸をすること、食べる(水分補給を含む)こと、排泄すること、寝ることの4つです。

もちろん細かいことを言えば、体温管理などという問題もありますが、
極論をいえば、人は「息して」「寝て」「食って」「出す」ことができていれば、生き続けることは出来るはずです。

もしかしたらすでに限りなくこの4つの行動に近い活動のみで、毎日を過ごしてしまっている人もいるかもしれませんね(笑)

しかしこういった最低限の生命活動だけで毎日を過ごしていると、人間はどうなってしまうのでしょうか?


その昔、ローマ帝国の時代にフリードリヒ2世という皇帝がいました。

この方は少々変わった人で、なにか疑問が沸くと、その疑問を解決すべく実験をおこなう癖がある人だったようです。
そしてある日、こんな疑問を感じたのです。

『言葉を教わらないで育った子供は、いったいどんな言葉を話すのか?』

こういう疑問を思いつくのもすごいですが、これを人体実験で解明しようとしてしまうのが、この時代の皇帝の怖いところです(笑)

さっそく部下に50人もの赤ん坊を集めさせて、大部屋に隔離し、その子たちには一切の言葉を聞かせないまま育てるのです。

ミルクやオムツ変えやお風呂などの面倒は充分にします。
ただし接触するときは、赤ちゃんの目を見ない、笑いかけない、話しかけない、必要以上に触らないというルールを看護士には義務付けました。

このように一切の愛情や刺激や情報を与えないで育てていた赤ちゃんたち。
いったいどうなったと思いますか?


全員、あっという間に死んでしまったそうです。

※まあこの実験自体が本当に行われたのかという疑問もあるようですが、歴史上、過去には同じような実験をした人たちが結構いたという記述も残っているようで、その場合もやはり同じような結果になっていることからも、少なからずこの実験結果には信憑性があります。


そしてこの実験結果から解ることですが

人間は、単に生命維持だけの生活に偏ってしまうと、逆に生命エネルギーがやせ細っていくという事実です。
つまり人には生きていくための生命活動以外に、なんらかのプラスの刺激がすごく大切なのです。

その刺激とは仕事だったり、趣味だったり、ボランティアだったりと様々あるでしょうが、取り分け“はたらく”ということは、毎日にあたらしい刺激を与えてくれる大きな役割りをもったルーティンなのです。

また人に限らず、生命にとって“はたらく”ことは、課せられた生命活動の一つといっていいでしょう。

餌をもとめて歩き続ける蟻んこだって働いていますし、植物だって根を張り、太陽の光を求めて上へ上へと葉を広げ、枝を伸ばします。

もちろん動植物たちにとっての“はたらく”は食べていくこと、生命維持の為の仕事です。
しかし人間にとって“はたらく”という行動は、単に生きるという目的以外にも、生きがいや生命力や知恵の向上というプラスアルファを与えてくれる、活動に幅を与えてくれるものという一面もあるのです。

そしてその一面こそが、人間の人間たる所以とも言えますし、逆にその一面がない人生を歩むということは、刺激がなくて死んでしまった赤ん坊のように、生命エネルギーを失っていってしまうことに繋がります。

朝早くおきて庭の手入れをしたり、玄関前を掃除したり、孫の世話をするお年よりも働いています。
子どものお弁当を作り、ご主人を会社に送り出し、家の掃除や洗濯をする専業主婦も働いているのです。

かならずしも『働くこと』イコール『お金を稼ぐ』ということではないのです。
働くということは、言うなれば『毎日の景色を変える』ということなのです。

新しい人や環境と出会い、視点が変わる、景色が変わることで、新たな展開がひらけていきます。
1歩すすめば視点は変わり、未来も変わります。

人の生命エネルギーを細めていく一番よくない原因は、視点の変化がなくなってしまうこと、立ち止まってしまうことでしょう。

もしあなたが病気で寝込み、天井しか見れない立場になったとしても、活動を止めてはいけません。
未来にむけて一歩でも進むために、今出来ることを考え、実践する毎日でなければいけないのです。


また昨今、仕事ができる体力と時間をたらふく持っているけれど、精神的に弱さがあって仕事をしていない“ニート”と呼ばれる人たちが増えているようです。
もちろん中には病気であったり、小さな子供がいて働くに働けないという環境の人もいるでしょう。
しかしそういう環境外でありながら、なかなか新しい一歩が踏み出せずにいる方に、最後にお伝えしておこうと思います。


三十代後半、四十代、五十代になった自分を雇ってくれる会社があるはずない。
新しい職場で溶け込む自信がない。
自分のやりたい仕事がいつまでたっても見つからない。
自分はうつ病だから、仕事を続けていくことが出来ない。


自分が働けない理由に、このようなマイナスな理由を言い訳にしてしまっている自分の存在に気付いているのなら、あなたにはまだ仕事で活躍するチャンスが残されています。
そして働かない自分を否定せずに、肯定化している自分がいるのなら、はやくそいつとは手を切ったほうがいい。

あなたが働けない本当の理由は、あなた自身が作りだしている“臆病な自分”というもう一人の自分からの説得です。
本当はあなたは今日からでも働くことが出来るはずなんです。でも臆病なもう一人の自分があなたにいろいろと言ってくるのです。

「お前が求められているような職場なんてあるわけないぞ」
「お前に今さら何ができるんだ?」
「お前よりもうんと若いやつに頭下げて仕事を習うのか?」


こういう臆病な自分の言葉に言いくるめられてしまうと、どんどん時間だけが流れていきます。


ぶっちゃけ仕事なんて何でもいいのです。
働いてみてどうしても嫌ならチェンジして構わない、転職する権利はだれにでもあります。

自分にあった仕事、満足感の高い仕事、条件の良い仕事。
もちろん見つけることが出来ればいいですが、実際はなんらかのマイナスな要因が目にとまって、すぐに他の仕事を探してしまうの繰り返し。いつまでたっても仕事は決まらない、そのうちに働く意欲すら失っていく。

そういう道を歩まないためには、とにかく“間”をあけないことが重要です。
何らかの理由で仕事を辞めたとしても、そこで一息つかないこと、間を空けずに次の仕事に就くことです。


仕事は最低限稼げればよいと割り切ってしまえば、いくらでもあるはずで、とにかく現状から1歩進むことで見えてくる景色の変化、これが重要なのです。

景色が変われば行動パターンも変わり、考え方も変わり、出会う環境も変わっていく。
それはつまり未来が変わっていくということです。
目に見える景色が変化していく中で、本当に自分がやりたいものや、やりたかったものに出会える確率は上がっていきます。
立ち止まっていても景色は変わりません。思い描いているだけでは駄目なのです。

今まで未経験の仕事であろうと、力仕事であろうと、夜間勤務であろうといいんです。
ニートだという人はとにかく一歩進むことで景色を変えることが先決です、それによって目標が遠のくことはありません、むしろ近づいてきます。


“はたらく”ことは人生を華やかにするための色付け作業であって、人間は色のない人生を歩めない唯一の動物でもあるのです。



東京より
白石

科学者が検証した幸せの上手な探し方

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新年の挨拶を掲載してから、ありゃりゃもう5月(笑)

今年から日本で活動再開していますが、ゆっくりと過ごそうと思っても、やっぱりなんだかんだと忙しくなってしまいます。

タイのゆったりタイムに慣れていたので、あわあわしてしまう日々になかなか順応できませんでしたが、最近はすっかりジャパニーズタイムでバリバリ活動できるようになってしまいました(苦笑)

ただ以前と違うのは、精神的に根詰めるところまでシビアに仕事をしていくことは無くなりましたね。

どこかタイのマンペイライ(大丈夫、なんとかなるさ)精神が根付いていて、忙しい中でも心のなかに余裕というか、休憩所のような場所が感じられます。

この仕事は不幸なことや困難を扱うことが多い仕事ではあるんですが、そんななかでもご相談者さんとのあいだに、空間がはりつめない緩やかな時間が過ごせている感じはしますね。
僕もすこしは成長できているのでしょうかね?


さて、先日気になる記事を見つけましたのでご紹介します。

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科学者が検証した幸せの上手な探し方。誰か(何か)の為にする小さな一善(米研究)

誰もが幸せになりたいと願う。幸せの追求のは人生の中で最も必要不可欠な目的の一つであり、幸せは精神的な健康の証とみなされることが多い。しかし幸福とは多くの人々が思い描いているものよりも不可解で複雑であり、幸せへの欲求がはっきりしているにもかかわらず、それを達成する方法は曖昧だ。

 米スタンフォード大学の社会心理学者、ジェニファー・アーカーと、ヒューストン大学のメラニー・ラッド、ハーバード大学のマイケル・ノートンは、人々が心から実感できる幸せについての研究を行った。それによると、人は自分の為に何かするよりも、誰か(何か)の為に良いとされることを行い、それを達成できた時に最も大きな幸福感を得ることがわかったという。


研究チームを率いたアーカーは、「幸せへの道」がぼんやりしている理由の一つとして「人々はたいてい自分は幸せになる方法を知っていると思っているが、本当に自分を幸せにするものを間違えていることが多い」ことをあげている。

 研究チームは基礎研究と全国調査の蓄積データから543人の人々を対象に様々な実験を行っていった。その結果、人が幸せを手に入れるもっとも有効な手段は、「誰か(何か)をより幸せにする」ことに専念するということがわかったそうだ。ではどんな方法で行っていけばよいのだろうか?

誰かの為に具体的で実行可能な目標を定めそれを実行する。

誰か(何か)の為に、直ぐにでもできる小さな目標を定め、それを実行すると良いそうだ。つまり、「漠然とした善行や環境保護を目指す代わりに、そこにいる誰かを笑顔にしたりリサイクルする物を増やす。」 という自分にも実行可能な分かりやすい目標を定めてそれを実行していくのだ。

 誰か(何か)をもっと満足させる計画を立てることはそれ自体に幸せ効果があるが、それを実行しようとして具体案を考えることでさらに大きな幸福につながるという。具体的な目標は、成功した姿を思い浮かべることができる。それが目標の達成へつながる。

例えば骨髄移植に関する実験は、移植が必要な人に対し被験者が「骨髄を提供するかどうか」という抽象的な目標を持つのと、「ドナーを見つける手助けをする」という具体的な目標をもつのとではどちらがより幸せになるか、という点に注目して行われた。

 結果は、ドナーを探す手助けをする方がより幸せを感じる、というものだった。これらの「幸せの効果」は、目標を達成できるという”期待”と実際の”結果”との間にできるギャップに関係する。抽象的な目標は非現実的なことが多い。より具体的な目標を立てた方がそのギャップは小さくなり幸せが大きくなる。

ビジネスの例をあげると、「トムズ・シューズ」という靴屋は、まさに実現可能で見込みのある目標を消費者に持たせることで、幸せを増殖させていった。

 この靴屋で靴を1足買うと、別の一足を世界中にいる靴が必要な貧しい子供たちに届けてくれる。靴をもらった子供たちはもちろん、靴を買った消費者も靴を買うことで「誰かを幸せにする。」という目標を達成できる。

ただし、良かれと思ったことがかならず良い結果をもたらすとは限らない。研究者は指摘する。「その道の途中には”不幸のトラップ”が待ち受けている。善意で行う事が裏目に出るような形で不満が残ることもあるかもしれないが、それは幸せを追求する際どこかでくわす可能性があるということをまず理解しておくべきである。」

 例えば電車で席を譲ろうとしたら不機嫌な顔をされたとか、泣いている子どもに声をかけたら通報されるといった事案だ。そういったトラップに出くわすと、人は他者の為に何かしようとしなくなるが、そこで留まるっていると満たされない気持ちのままずっと過ごすこととなる。それは自らを幸福へと導く為の通過儀礼であると割り切った方がよさそうだ。

 少しだけ楽観的に考えればよい。自分以外の誰かに何かをもたらす人々の目標が現実的にはっきりして、具体的なレンズ越しに見えたとき、素晴らしい幸福はすぐそばにあるということだ。

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この記事を読んで、ピンときた人は僕のブログをよく読みこんでいる人だろうと思います。

過去にブログで伝えてきたことが、科学的な視点から書かれているだけで、結論付ければ『善行とカルマ』ということにつながっていることが理解できるでしょう。

本当の善行 善行と偽善の大きな違いとは?などでもお伝えしましたが、目の前の小さな善行を自然に積み重ねることは、流れ流れて自分の元へ幸福として戻ってくるのです。

それはどんな形であるかはわかりません、まったく想像もしなかった形であるかもしれません。いや形がないものかもしれない。

本当の幸せとは、お金や形のあるものに限らず、あなたの心を緩やかにし、豊かに、そして優しい気持ちにさせてくれるもの。

それはある種のエネルギーともいえます。

良いことも、悪いことも、すべての要因には未来へつづくエネルギーの種が詰まっています。
そしてそれは、時を経て必ず自分が浴びることになるのです。


東京より
白石

適当はダメですか?

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日本に帰ってきていつも思うことですが、日本人ほど健康に気をつかう国民もいないでしょう。
まさに“国民総健康オタク”と呼べると思います。


テレビや雑誌を見れば、毎日のように健康に関する話題や番組であふれています。


その腰痛は、実は内臓から来ている!?

立ちくらみに潜む重大疾患とは?


こんなセンセーショナルな見出しをつけて視聴者をあおり、白衣の先生がそれらしい解説を加えます。

自分に当てはまる項目がひとつでもあれば、「ああ大変だ」と眼を皿のようにして食いつき、
医者がバナナがいいと言えば次の日にはスーパーの棚からバナナが消え、トマトがいいと言えばトマトジュースを買い占め、やれココアだ!キノコだ!ヨーグルトだ・・・

もちろん健康に気をつかうことは悪いことではありませんし、日本人が長寿世界一なのも、こうした一人ひとりの健康意識の高さの現われなのかもしれません。


しかしこうした情報が氾濫している影で、健康に対して強い強迫観念のようなものを刷り込まれている人もなかにはいます。

毎日、納豆をかかさず食べなければ気がすまない、ですとか
水を2リットル飲む人、サプリメントを何十粒と飲む人ですとか、、、あなたのまわりにもいませんか?


これら、たしかに身体の健康に効果があることなのかもしれません。

でも魂の観点から見ると、精神的健康はどんどん損なう一方でしょう。


人間はなにかに強く依存してしまうと、段々と生活バランスを崩していきます。

良かれと思って肥料や水を与えすぎた植物が枯れてしまうように、ものには適時適量と呼ばれるバランスを維持するための帯域があるのです。

しかし強い思い込みは段々と自意識を麻痺させ、あまりにも不自然な生活習慣を日常化していきます。

健康に良いと思ってやっていることが、心と身体トータルでみたときに、はたして本当にプラスになっていることなのか?
ここはしっかりと見極めなくてはなりません。


と、ここまで健康に関してのお話しでしたが、
こうした強迫観念や原理主義的な“思い込み”がもたらすマイナスは健康以外のこと、普段の生活のなかにも当てはまるのです


○○は、こうでなくてはいけない。


こういう選択幅のない思い込みが、他人と軋轢を生み、自分の中の余裕をなくしていきます。

答えは一つだと決め付けてはいけません。また他人の示した答えに対し神経質に反応することもありません。

もっと適当でいいのです。


日本人はキッチリしているので『適当』という言葉に対し、強い嫌悪感を覚える人が多いと思います。
でも辞書で調べると『適当』には3つの意味があります。

  • -----・------・------・------・------・------

① ある条件・目的・要求などに、うまくあてはまること。かなっていること。ふさわしいこと。また、そのさま。「工場の建設に―な土地」「この仕事に―する人材」

② 程度などが、ほどよいこと。また、そのさま。「調味料を―に加える」「一日の―な仕事量」

③ やり方などが、いいかげんであること。また、そのさま。悪い意味で用いられる。「客を―にあしらう」「―な返事でごまかす」

                 (大辞泉より)

  • -----・------・------・------・------・------

③のいいかげんであること、適当をこの意味で捉えてはいけません。
①と②で考えてください。


『ものごとは程度がほどよければ、それでよい。』

このくらいのアバウトさでいいのです。


完璧な仕事、完璧な人間関係、完璧な健康、完璧な生き方

そんな完璧な答えをもった人は一人としていません。

にもかかわらず人は完璧を目指して、なにかに依存し、心と身体にギチギチと詰め込んでいきます。
それがどんなにバランスを崩しているとも知らずに。


毎日納豆を食べなくてもいいのです。気が付いたら、身体が欲したら食べればいい。
ひとつの考えに凝り固まってしまわないように、柔軟な意識を持てれば人は心身ともにもっと健康でいられます。


ほどよく生きるという適当主義


これこそが健康においても実生活においても、最もバランスの取れた生き方なのです。



東京より
白石

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