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捨てる勇気

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なかなかモノを捨てることが出来ない人っていますね。


「これはいつか使うことがあるだろう。」

「ぼろぼろだけど愛着があって捨てられない。」

「これが自分の手にあるのには、きっと意味があるはず。」


本当に大切なモノだけでなく、一見するとゴミにしか思えないようなものまで様々な理由をつけて、捨てられない人はどんどん溜め込んでいきます。

もちろん多くのモノは結局まったく使うことなく、ただ場所を占領しているだけです。

本人も解っているのですが、どうしても一度手に入れたものを手放す事に対し、不安的な感情が先行しスパッと捨てることができません。
モノに対する強い執着心や依存心が芽生えてしまっていて、捨てることはまるで自分の存在意義をも捨ててしまうことというような、強い脅迫観念すら覚えてしまうのです。


こういう“捨てられない人”は多くの場合、モノだけにかかわらず、どうでもいい情報も溜め込みますし、過去の思い出や経験すらも切り離せないで溜め込んで行きます。

3ヶ月も経てば忘れてしまうようなゴシップ記事やニュースに、毎日貴重な時間を割いて一喜一憂したり、感情移入したりします。

過去の失敗や栄光を何年も引きずり、新しい未来の構築ができないまま歳を重ねていく人も多くいます。


彼氏に振られたことを忘れられずに、新しい恋に向かう気が起きないだとか、

仕事の失敗でリストラされて、新しい職を探す気になれないだとか、

輝いていたころの自分と今を重ねて、落胆の日々を送っているだとか・・・


でもこんなのは、使わないモノに占領されて、足場を失って動けずにいるだけの乱雑なお部屋の状態のようなものです、まったくナンセンスなのです。


解決方法はひとつだけ、簡単な話しです。
捨てればいいのです。

モノを捨てることが下手な人は、こういう気持ちの切り替えも下手な人が多いのです。
過去を捨てることが出来ません。

とっくに過ぎ去ったことを何とか心のなかで整理しようとしますが、そもそも過去を整理しようとしても状況を変えることなどタイムマシンがないと無理なんですからね(笑)


結果として整理などできずに、ただ積みあがっていくだけです。
そう、全く読まないのに積みあがっていく古本のようにです。


運の良し悪しを決めているのは part4 でも言ったように、捨てられないことはケチなことにも繋がっています。


世の中には“もったいない”という精神が美徳であるという風潮がありますが、この考え自体は基本的に間違いではありません。
モノを大切に扱うことはいいことでしょう。
しかし必要以上にモノや過去に執着してしまう生き方は決して美しいとはいえません。

それでは我々はどのような生き方を目指すべきなのでしょうか?

それは、極力モノを持たない生き方、過去に縛られない、シンプルな生き方こそが美しく完璧な生き方です。


僕の好きなブッダの言葉にこういうのがあります。

『鳥はどこへ行くにも翼しか必要としない。
ただのひとつも荷物も持たずに己だけで飛んでいく。

しかしその姿は完璧である。

人間も同じように、今着ている衣と食器一つあればそれでいいのだ。』


余計なものに縛られた人生を歩むことに対する戒めの言葉でしょう。

なにかに強く依存してしまっている人や、過去に縛られてしまっている人は、思い切ってそれを捨ててしまいましょう。
後ろ髪を引かれながらではなく、気持ちよくスパッと捨ててしまうのです。捨てることを怖がってはいけません。

そうすれば、スカッとした気持ちで、新しい地へ向かって飛び立てます。



バンコクより
白石


※ここのところ帰国準備でワタワタしていてブログさぼりがちでしたが、そこはお許しを
9日からバリに入り、アグン巡礼のあと、半年振りの日本帰国です(笑)
今年の夏は日本で過ごします。

しかしなんか最近日本も暑そうで、気温的にはバンコクと変わらないみたいなんだけど・・・

あしたの自分は、きょうの自分

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謎かけのようなタイトルで始まった今回の『人生の智慧』

今日は理想や目標を現実に出来る人と、そうでない人について話しをしてみたいと思います。


突然ですが、

皆さんに「いつやるの?」と尋ねると、何と答えますか?


「今でしょ!!」


今ならこう答える日本人は1億人はいそうです(笑)

ご存知のように最近CMで一躍有名になった予備校の林先生の決め言葉です。


この言葉、単なる流行語として捉えるにはあまりにも勿体無い、素晴らしい言葉だと思います。
僕はこの言葉をはじめて耳にしたとき、まさに『今』の重みを知っている、日本有数のトップ講師だけのことはあると感心しました。

短く単純なフレーズのなかに、人間の脆弱さをするどく突いた真理が隠されていると感じたからです。

林先生は受験生を鼓舞するために自然に使い始めたのかもしれませんが、この言葉は“今”を軽視している人からは絶対に出てきません。
“今”行動を起こすことがいかに大切なことであるのかを知り尽くしているからこそ、自然に出た言葉だと思えるのです。


何かをやり遂げるために行動するなら、それは“今”しかありえないのです。

「どうして?明日だってできるじゃない?」

こう考えてしまう人は、永遠に理想には追いつけません。

なぜなら“明日の自分”くらい信用できない人物はいないからなのです。


昨日の自分

今日の自分

明日の自分


このなかで自由に行動し、方向性を決めることが出来るのは“今日の自分”だけです。
昨日の自分は過ぎ去ってしまったことなので今さら操れませんし、明日の自分はまだ訪れていないので操れません。
つまり何かをやろうとした時に、確実に行動できるのは“今日の自分”だけなのです。

しかし“今日の自分”は得てして“明日の自分”に期待し、行動を託します。


「明日からがんばろう」

「そのうち始めよう」


でもちょっと待ってください。

“明日の自分”は、“昨日の自分”から見れば“今日の自分”なわけです。

ここからはごちゃごちゃしますけど、考えながらゆっくり読んでくださいね(笑)


さてどうでしょう?

“今日の自分”は“昨日の自分”の期待に応えられたでしょうか?
託された行動をしっかりと“今日の自分は”こなせましたか?

もし期待に応えられていない、もしくはまたまた“明日の自分”に丸投げしたというのであれば、それは言うなれば『期待の逃げ水』です。

『逃げ水』って知ってますか?
夏の暑い日などに見られる蜃気楼の一種で、焼けたアスファルトの道で遠くに見える水溜りのようなモヤのことです。
その水溜りは近づくとなぜか逃げていく不思議な自然現象です。



明日の自分、未来の自分に期待して目標や理想の遂行や責任を押し付けていても、実は“明日の自分”は昨日から見た“今日の自分”なのです。
つまり今日の自分がやらなければ、それは結局のところスライドするだけで明日の自分もやらないのです。


目標をしっかりクリアできる人は、“明日の自分”に期待し過ぎません。
むしろ“明日の自分”くらい信用できない人物はいないと疑っているのです。

常に最高なのは“明日の自分”ではなく“今日の自分”である。
そう思っている人だけが、期待以上の明日の自分になれるのです。


「いつやるの?」

「今でしょ!!」


まさに勝ち抜く人の言葉です。



バンコクより
白石

毎日をおもしろくするには

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あなたは朝起きてまず何を思うでしょう。

「ああ今日も面倒な一日がはじまるな」

寝ぼけまなこにだるさを覚えながら、こんなふうなことを考えて一日をスタートさせていませんか?。

多くの人は、黙っていても訪れる“今日という一日”に対して特別な感情を持っているわけではありません。
“今日という一日”に特になにも期待もぜずに、これといって特徴のない朝を迎えています。


「どうせ今日も昨日と大して変わらない一日に決まっている」

じつはこうした一日の最初の考えが、その日の方向性を決めてしまっているということがあるのです。

毎日が詰まらないとなげく人は起きた瞬間からその日をあきらめ、面白くない一日だと決め付けてしまいます。
でもそれでは面白いことなど起こるはずがありません。


詰まらないと仮定して始める一日は、まず新しいことや変化を受け入れようというチャレンジングな意欲が生まれません。

今日を平穏無事にやり過ごし、はやく家に帰ってゆっくりすること。

こうした保守的な気持ちが先行するので目線は足元にしか向かわず、広い視野でなにかを発見して新しいイノベーションを生み出そうというような冒険的な精神は持たなくなります。

たとえ目の前をチャンスが横切っても、それはチャンスと認識されずに景色と同化してしまうのです。
それはまるで、毎日、同じような線をトレースするだけのモノクロの鉛筆画のような人生です。
気付きやヒラメキといった、人生に色をつける絵の具を手に入れることが出来ません。


「今日をどんなおもしろい一日に出来るだろう」

ためしに明日の朝からしばらくの間、こんな考えで布団から飛び起きてみてください。

たったそれだけの違いでマインドは上向きになり、スタートダッシュが決まります。
今日という一日を昨日とは切り離して、新鮮な気持ちで迎え入れてみるのです。

そうすれば同じような朝でも昨日と今日は違うことにすぐに気付くでしょう。
通勤、通学の景色も聞こえてくる音も昨日と今日は違う、食べるものが同じでも味や満足感が違う、朝の挨拶だって気持ちよくできるはずです。


毎日を面白くすることは難しいことではありません。

自分から変化を受け入れる体制を整え、面白いことを探す姿勢をもつこと。
なによりも期待感を持って毎日を過ごすことです。

面白いことは“探している人”にしか見えないのです。



バンコクより
白石

謙虚の穴

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「私は凄い」
「私は仕事ができる」
「私はお金を持っている」
「私はなんでも知っている」
「私にできないことはない」

こういう自分で自分を褒めたたえ、大きく見せようとする行為ほど愚かなものはありません。

自分を大きく見せることで、まわりに人が寄ってくる、自分を尊敬してくれる。
そう思い込んでいるのです。

たしかに一時的に人は寄ってきて、「すごいすごい」と持ち上げてくれます。
でもそれはそこに対価を求めているだけで、対価が無いと判れば潮が引くようにいつの間にか去っていきます。


こういう人は自分は常に正しいと思っているので、あたらしい知識や教えを受け入れようとしなくなります。
これは自分の手で目を耳をふさぐ行為でしょう。
自惚れてしまった人に他人の教えは届きません。


また、自分で自分を褒めたたえる行為は、他人からすると実に滑稽なものに映ります。
その姿に、親身になって助言してくれる人はひとり去りふたり去り、そして結局周りには誰もいなくなってしまうのです。

すると誰も自分のことを持ち上げてくれなくなる、だから自分をより大きく見せようとする・・・

負の繰り返しです。



頭の良い人は常に謙虚な姿勢を保ちます。

自分は知らないことだらけだと教えを請います。
自分は間違っているかもしれないと意見を求めます。

一見すると無知で自信喪失しているような頼りない穴だらけの人。

でも実はこの穴こそが“謙虚の穴”

謙虚の穴を持っている人は、本当は知っていることでも知らないこととして教えてもらう姿勢を保ちます。
教えてもらったら「知ってたよ」とは言いません。知識を与えてくれた事を喜び、感謝の気持ちを伝えます。
すると教えたほうは感謝されて気持ちよくなり、「他にも知りたいことがあるなら教えるよ」とすすんで協力したくなってしまうのです。

謙虚の穴がたくさんある人は、ふかふかとした誰にでもフィットする柔らかさがあります。

いうなればスポンジです。
まわりから『知恵と知識と協力と親しみの水』をどんどん吸い寄せているのです。
不意にピンチが襲ってもこれらの水が吸収し、まわりからも助けられます。

反対に自分を大きく見せようとする人には謙虚の穴がありません。
それは冷たく硬い石のようなもの。
表面だけしか水に濡れず、しかもすぐに乾いてしまうだけでなく、不意の衝撃にも脆さをみせます。誰も助けてくれません。


謙虚の穴を持つことは人生を上手に生き抜く智慧なのです。


あなたには謙虚の穴はありますか?



バンコクより
白石

あなたは苦しみがない世界に住みたいですか?

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みなさんの中で、苦しいことが大好きだという人はいますか?

こんな質問をしてもほとんどの人は『NO』だと答えるでしょう。
まあなかには『YES』という人もいるかもしれませんが(笑)
人は基本的に、苦しいこと、つらいこと、不安になることが大嫌いです。

家族と仲が悪い。
仕事がつらい。
恋愛がうまくいかない。
勉強がはかどらない。

苦しい理由、つらい理由、不安になる理由は人によっていろいろあるでしょうが、こういった苦しみは心を曇らせ、やる気を奪います。
人はその苦しみから逃れたくて、様々な解決策を案じては実行を繰り返すのです。

では、もし一切の苦しみ、つらさ、不安が無い世の中だったとしたら、人は幸福になれるのでしょうか?
そういった心にストレスを感じさせるものをまったく感じない世界です。

もしかしたら皆さんは、そんな世界に生まれることが出来たら、どんなに幸せだっただろうなどと考えてしまうかもしれません。

では想像してみて下さい、苦しみ・つらさ・不安などネガティブ要素となるものがまったくない世界を。


まず、あなたは悩みません。
なぜなら問題が起こっても焦りがないので悩む必要がないのです。

あなたは泣きません。
なぜなら悲しみを感じないので泣く必要がないのです。

あなたは寝ません。
なぜなら眠いという苦しみを感じないので寝る必要がないのです。

あなたは食べません。
なぜなら空腹というつらさを感じないので食べる必要がないのです。

あなたは働きません。
なぜなら生活していくという不安を感じないので働く必要がないのです。

あなたは学びません。
なぜなら無知という恥を感じないので学ぶ必要がないのです。

あなたは頑張りません。
なぜなら落ちこぼれるという落胆を感じないので頑張る必要がないのです。

あなたは係わりません。
なぜなら孤独という恐怖を感じないので人と係わる必要がないのです。


これを読んで皆さんは極端だと笑ってしまうかもしれませんが、もし人が苦しみを感じなくなったらあっという間に堕落し、何もしなくなり、人類は進化を止めて退化していくことでしょう。

実は人に限らず、生命が行動し進化していくための基本の基本は、苦しみから逃れるためなのです。

人が寝るのはなぜなのか?
それは「寝ないと死んでしまうから眠る」とか「美容のために眠る」わけではなくて、単純に眠いという現実的な苦しみから逃れたいので眠るのです。

なぜ目覚めると起きるのかといえば、寝続けることが苦しくなって起きるのです。

なぜご飯を食べるのかといえば、空腹のつらさに耐えかねて食べるのです。

なぜご飯を残すのかといえば、満腹感につらさを憶えて食べるのを止めるのです。

このように人の行動のもとになるものは、すべて苦しみからの脱却というシンプルな動機によるのです。

その昔、仏教をひらいたブッダは気絶するまで息を止める「断息」という荒行をしたそうです。
それはブッダが行なった修行の中でも1、2を争うほど、苦しい行だったそう。

そして人が息をするのは生きるためではなく、苦しいからするのだと悟りました。

苦しみ、悲しみ、つらさ、不安、恐怖 etc・・・

こういったネガティブで一見すると人の歩みを止めてしまうように感じるものが、実は人を前進させ、進化させるエネルギーにもなっているのです。

苦しみがあるからこそ人は耐え、学び、頑張り、乗り越え、成長できる。

そう考えれば、今あなたが感じている苦しみにも意味があるのだと気付けます。



バンコクより
白石

smiling again