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魂に燃料がなくなると part 1

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自分はなんのために生きているのか?

こんなことを考えてしまうことはあるでしょうか?

ふと心に穴が開いたような、なにか満たされない想いに支配されてしまったとき

あなたは自分の生まれてきた意味を知りたいと思います。


自分を必要としている人はどのくらいいるのか?

自分に何が残せるのか?


こういったことを考え、あれこれ問答している自分に気付いたなら
それは、あなたの魂が燃料不足に陥っているからです。


魂がパワーに満ち満ちているときは、人は生きる意味を疑問に感じることはありません。

毎日をひたすらに、ただただ走り抜けます。

生きていることに対し感慨ぶけることもありません。

ただ当たり前のように、日々を加速し続けるのです。


しかし、ふと自分の存在価値や生きる意味を考えはじめたとしたら、それはあなたの魂の燃料メーターが下がってきて警告ランプが点灯したのだと理解してください。

そうなったら魂にあらたに燃料を注ぎ込まないと、過去の惰性で残りの人生を走るだけの詰まらない生き方しかできなくなってしまうでしょう。

そして完全に魂の燃料が尽きると、あたらしいことに挑戦する意欲もなくなり、過去のまぶしい栄光に想いをふけながら、その場しのぎの愉しい妄想に逃げ込むようになっていきます。

そうなると現実の人生は段々と勢いがなくなり、あとは自然に止まるのを待つだけです。


魂が燃料不足に陥ってしまった人が、ふたたび加速感のある人生を得るためには魂に燃料が必要なのです。

ガス欠のクルマにガソリンを入れるように、魂がもう一度雄叫びをあげるようなパワーの注入ができるか否かは、自分自身の気付きと、その後の生き方に掛かっています。


では魂の燃料とは何なのでしょうか?

それは何も、奇をてらった難しいものではありません。


悦びです。


魂が悦ぶことをすることが、これすなわち魂のパワーの源になります。

魂はあなたの思考とは関係なく、常に悦びを求めます。

もともと魂にとっては、生きることもそれ自体が使命であり大いなる悦びなんですが、肉体(脳による思考)はときにそれを拒否するのです。

なにか不満があるとすぐに投げやりになって自分のことを卑下したり、存在を拒否したり、死を考えたりします。
そういった繰り返しが積もると、魂は疲労し、活力を失っていきます。

魂の使命である 真っ直ぐに素直に生きることを拒否する肉体(思考)が、燃料不足につながっているのです。


それではもう一度、人生に加速感を得るにはいったいどうすればいいのか?
魂に悦びを与えるためにすべきこととは?

次回は魂の悦びについて詳しくお伝えしましょう。
今日の講義はここまでです。



バンコクより
白石


※来月は半年に一度のアグン巡礼です。
アグンクリスタルの7月渡し予約分をそろそろ締め切ろうと思いますが、ご希望の方はお早めにお願いします。
詳細希望の方は volforce@gmail.com までメールして下さい。(携帯からの方は受信設定して下さい)

あしたの自分は、きょうの自分

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謎かけのようなタイトルで始まった今回の『人生の智慧』

今日は理想や目標を現実に出来る人と、そうでない人について話しをしてみたいと思います。


突然ですが、

皆さんに「いつやるの?」と尋ねると、何と答えますか?


「今でしょ!!」


今ならこう答える日本人は1億人はいそうです(笑)

ご存知のように最近CMで一躍有名になった予備校の林先生の決め言葉です。


この言葉、単なる流行語として捉えるにはあまりにも勿体無い、素晴らしい言葉だと思います。
僕はこの言葉をはじめて耳にしたとき、まさに『今』の重みを知っている、日本有数のトップ講師だけのことはあると感心しました。

短く単純なフレーズのなかに、人間の脆弱さをするどく突いた真理が隠されていると感じたからです。

林先生は受験生を鼓舞するために自然に使い始めたのかもしれませんが、この言葉は“今”を軽視している人からは絶対に出てきません。
“今”行動を起こすことがいかに大切なことであるのかを知り尽くしているからこそ、自然に出た言葉だと思えるのです。


何かをやり遂げるために行動するなら、それは“今”しかありえないのです。

「どうして?明日だってできるじゃない?」

こう考えてしまう人は、永遠に理想には追いつけません。

なぜなら“明日の自分”くらい信用できない人物はいないからなのです。


昨日の自分

今日の自分

明日の自分


このなかで自由に行動し、方向性を決めることが出来るのは“今日の自分”だけです。
昨日の自分は過ぎ去ってしまったことなので今さら操れませんし、明日の自分はまだ訪れていないので操れません。
つまり何かをやろうとした時に、確実に行動できるのは“今日の自分”だけなのです。

しかし“今日の自分”は得てして“明日の自分”に期待し、行動を託します。


「明日からがんばろう」

「そのうち始めよう」


でもちょっと待ってください。

“明日の自分”は、“昨日の自分”から見れば“今日の自分”なわけです。

ここからはごちゃごちゃしますけど、考えながらゆっくり読んでくださいね(笑)


さてどうでしょう?

“今日の自分”は“昨日の自分”の期待に応えられたでしょうか?
託された行動をしっかりと“今日の自分は”こなせましたか?

もし期待に応えられていない、もしくはまたまた“明日の自分”に丸投げしたというのであれば、それは言うなれば『期待の逃げ水』です。

『逃げ水』って知ってますか?
夏の暑い日などに見られる蜃気楼の一種で、焼けたアスファルトの道で遠くに見える水溜りのようなモヤのことです。
その水溜りは近づくとなぜか逃げていく不思議な自然現象です。



明日の自分、未来の自分に期待して目標や理想の遂行や責任を押し付けていても、実は“明日の自分”は昨日から見た“今日の自分”なのです。
つまり今日の自分がやらなければ、それは結局のところスライドするだけで明日の自分もやらないのです。


目標をしっかりクリアできる人は、“明日の自分”に期待し過ぎません。
むしろ“明日の自分”くらい信用できない人物はいないと疑っているのです。

常に最高なのは“明日の自分”ではなく“今日の自分”である。
そう思っている人だけが、期待以上の明日の自分になれるのです。


「いつやるの?」

「今でしょ!!」


まさに勝ち抜く人の言葉です。



バンコクより
白石

両親の病気は私のせいでしょうか? ―魂のリプライ―

今回の『魂のリプライ』
ブログ読者の方からいただいた相談や質問に白石がお答えするコーナーです。

今日の相談はこの方です。

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《相談内容》

はじめまして。Yと申します。
約一年前に白石先生のホームページを偶然見つけて、続編のホームページも拝見しています。

去年の12月の終わりくらいになぜかまた急に黒カルマが気になって、
先生のホームページを久しぶりに見に行ったところ、
別のホームページが立ち上がっていたので、とてもびっくりしました。

以前のホームページは実在する方?という感じがしましたが、今回のホームページはとても身近な感じがします。
私は人の出会いで人生が変わると思っていますが、白石先生のホームページとの出会いもそのひとつだと思っています。
これからも応援しております。

今回メールをしましたのは、現在の自分の家族の状況についてご相談したいと思ったためです。

私の母は、現在65歳ですが、2年くらい前に痴ほう症を発症し、専門病院に入院中です。

また、私の父は糖尿病を患っており、そのために脳梗塞、心筋梗塞等の大病に何度もかかり、そのたび手術をしています。
現在も糖尿病の検査のため10日くらい入院しています。
母は入院し、私は都内で独り暮らしをしているため、父はいま一人で生活している状態です。後遺症は片目を失明したのと足の痛みくらいで、
いまは父は一人でなんとかやっていますが、病院の先生曰く、血管がどこも細くなっているめ、
またいつ大病するかわからない状態ではあるようです。

両親と暮らしていたころ、私は父、母ともに好きではありませんでした。特に母には憎しみに似たものも感じていました。
私は現在独り暮らしをしており、両親とは離れているせいか、今はそういった感情はありませんが、
白石先生のホームページを見て、自分は実家にいたころ攻撃型黒カルマを両親に送っていたのではないか、
そのせいで今の両親が病気で苦しんでいるのではないか、と思うようになりました。

病気というのは原因があっての結果だと思います。白石先生は両親が病気になった原因を見ることはできるのでしょうか?
両親の病気は私が黒カルマを送ったせいなのでしょうか?また、もし送っていた場合、
黒カルマを送った私の方にも、送ったことによる影響というのはあるのでしょうか?

白石先生に何か少しでもアドバイスをいただければと思います。よろしくお願いいたします。

また、もし私が白石先生のブログの内容を理解していなくて、とんちんかんな質問でしたら大変申し訳ありません。

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さて今回はご両親の病気についてのご相談です。

相談者のYさんは現在はひとり暮らし。
母親は痴呆症のため専門の病院に、父親は糖尿病により入退院を繰り返している状態です。

現在、家族がみなバラバラになってしまっていますが、そこにはそうならざる得なかった理由があるようですね。
これからそのあたりのところを、三人を遠隔リーディングしながら魂の目線で詳しく見ていきたいと思います。

まず相談者のYさんですが、魂の硬さで言うとやや硬めといわざる得ません。
性格的には温情に厚く、誰にでも面倒見のよい母性的な人ではあるのですが、自己防衛本能がつよい面がみられ、その意識が他人を心から受け入れられない、寄せ付けないような強さを醸し出しています。
他人に対してあまり媚びることもなさそうで、人によっては生意気だと誤解されやすい人生を歩んできたかもしれないですね。
常に気をつけていないと衝突しやすいタイプの魂だと思います。

黒カルマについてですが、遠隔視認では黒カルマは見えませんが、魂がそれなりに削れているようですので多少は飛ばしてしまっている可能性は否定できません。


次にお母様の魂をみてみます。

痴呆症というのはご存知のように脳の病気ですが、魂は肉体とは別物です。
肉体が病気だからといって、必ずしも魂も病んでいるとは言えません。

言えないのですが・・・お母様の場合は魂がかなりの硬さですね。
大きさや動きから察するに、若いときは相当、勝ち気な女性だったようで、このタイプの魂の持ち主は例外なく短気な人が多いです。

Yさんはお母様は特に馬が合わなかったようですが、これはある意味仕方なかったかもしれませんね。
細かいことでもガミガミと言うストレートなタイプの母親に対して、Yさんは自分の考えを曲げたくない頑固な面が見受けられます。
おそらく顔を合わせるたびにぶつかっていた時期があったかもしれません。

お父様はというと、かなりの気分やの方のようでマイペースな人です。
魂の硬さは年齢的には許容範囲だと思いますが、ちょっと動きがスロー過ぎますね。
これは肉体的な衰え、精神的な衰えからくる魂の鈍化でしょう。


三人の魂をそれぞれ見てみましたが、その上でYさんが懸念している黒カルマについてですが、これは多少なりとも悪影響を及ぼしてきたと考えるべきでしょうね。

家族間で通年的に恨みにまで発展するほど仲が良くない場合というのは、実は一番黒カルマを飛ばしやすい環境下なのです。

それは常に身近にいる事で直接的に魂がぶつかりやすく、近距離ゆえ削りカスが付着しやすい。
肉親関係は魂の質が似ていて、お互いに受け入れやすい。
遠慮のない関係。

こういった要素は家族という常にそばにいるからこその隠れた危険性です。

親子仲が悪い家庭というのは、だいたい子供は成人すると家を出ます。
単に口うるさい親から離れて自由になりたいという願いからの行動ですが、そこにはこれ以上一緒に過ごすことへの魂の警告という一面もあるのです。

ではYさんが気にしている黒カルマと病気の関係ですが、もちろんすべてではありませんが、これは大いに関係があるといえます。

『魂は生命が生命たるコアとなる部分であり、肉体や精神は魂を取り巻く一時的な付帯物に過ぎません。』

これは以前エントリした“魂と心の違い”のなかの一文です。
「魂」と「心や肉体」の関係を「運転手」と「自動車」に例えてお伝えしましたよね。

極端な魂の凝固化と痩せは、確実に肉体と精神のコントロールの制御を狂わせます。

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病気というのは原因があっての結果だと思います。
白石先生は両親が病気になった原因を見ることはできるのでしょうか?
両親の病気は私が黒カルマを送ったせいなのでしょうか?
また、もし送っていた場合、黒カルマを送った私の方にも、送ったことによる影響というのはあるのでしょうか?

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ご両親の病気がすべて親子仲の悪さから来たものとは言いませんが、まったく影響がなかったとは言い切れません。
少なからず影響はあったでしょう。
ただそれ以上に、特にお母様については元々の魂の状態が良好とは程遠いものであったことが一番大きな原因であったように思います。
Yさんが生まれる前から、それなりに魂をいじめてきてしまっていたのです。

お父様の病気に関しては、魂から読みとる限りでは黒カルマ原因というよりも、先天的な遺伝と生活上の問題から来ているもののようです。


以上がリーディング結果ですが、Yさんに今後の助言をさせていただくなら、
Yさん自身も今のままでは、今後身体的な悪影響が出やすい状態であることをしっかりと認識しておく必要があるでしょう。

実際、すこし魂の硬さが認められますし、激しくぶつかり合った形跡も見受けられます。
同年代に比べると決して良好な魂の健康状態であるとはいえません。

今は肉体的にも若さがあるので気にしていないかもしれませんが、10年後20年後を考えると、今からでも魂にやさしい生き方を心がけたほうがいいでしょうね。今ならまだ充分に間に合います。


あと、もうひとつ助言しておきましょう。

なるべくご両親のもとへ顔を出すように心がけてください。
過去どんなに憎んでいたとしても親子は親子です。痴呆になって脳が正常な認識力を失ったとしても、魂に刷りこまれた子に対する愛情がゼロになることはありません。
Yさんが、両親のことを僕に相談しようと思ったのも、やはりそこには確かなる親に対する愛情があるからです。

過去に引っ張られない生き方、修正の道を選択していきましょう。




バンコクより
白石

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『魂のリプライ』では白石に人生相談や質問をしてみたい方を募集しています!

◆内容は恋愛・仕事・家族の相談、世の中の疑問に思うこと、どんなものでも構いませんが、一部の人しか理解できないような相談や、個人が特定されてしまうような相談はご遠慮ください。

◆人間関係などの相談で感情などを知りたい場合は、対象者の住所(解るところまでで結構です)・性別・生年月日・お名前をご記入下さい。これらはもちろん公開はしません。
必要ならばちょっとだけ魂に触れさせて貰いリーディングすることもあります。

◆相談・質問は送って下さっても、選ばれない場合もありますのでご了承ください。
選ばれた相談・質問には白石がこのブログでお答えします。



相談・質問の送り先******

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運の良し悪しを決めているのは part4

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運の良い人と悪い人、なぜ運気は人によって差が出るのでしょうか?
運が悪い人は一生運の悪いままなのでしょうか?

今回の魂の智見は、運気について真実の知識を伝えるシリーズ『運の良し悪しを決めているのは part4』です。
このシリーズのファイナルとなります。
今日始めてこのエントリを読む人はまずpart1~3を先に読んで下さい。


運の良し悪しを決めているのは
運の良し悪しを決めているのは part2
運の良し悪しを決めているのは part3


さて前回のハイライトです。


~~~~~前回のハイライト~~~~~

運気を上げる為の種を撒くのは意外に大変なことである

運気の良い人も、実は特別多くの良い種を撒いているわけではない

運の良い人と悪い人の差は“ケチ”であるかどうか

“ケチ”には様々な種類があり、実は“ケチ”こそが不幸を呼び込む根源になっている

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前回はこういったところで講義は終了していました。
今回の講義は“ケチ”についての考察です。

なぜケチであることが、運気を下げてしまうことに繋がるのでしょうか?
例えばお金にケチな人の行動といえば、貯金をする、常に節約に努め、お金を遣わない。
一般的にこういう人のことをケチと言います。

たしかに無駄をなくし節約に努めることはいいことです。無駄に浪費することが良いことであるはずがありません。
では何をもってケチというのでしょうか?いったい節約とケチにはどんな差があるというのでしょう?


まず“ケチ”という言葉の語源ですが、これは平安言葉の『怪事(けじ)』から来ています。

怪事とは不吉ごとを指す言葉で、今でも使われる「ケチがつく」という言葉も元は「怪事がつく」から来ていて、縁起の悪いものが身に付いてしまった様子を指したネガティブな言葉です。
その後、江戸時代あたりから現代の意味になっていったようですが、古来からケチという言葉が持つ意味合いは決して良いものではなかったわけです。

これを踏まえてケチには定義があるのです。


以下の文を読んでパッと思いついたことで、あなたの精神的なケチ度を見てみましょう。

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Aさんは買い物をしていると人だかりを見つけました。
見ると無料でサンプル品を配っているようです。それを手に入れようと人が殺到しています。
そのサンプル品はAさんにとってとても魅力的な物です。
Aさんは他人を掻き分け、やっと伸ばした手に商品をゲットしました。
しかし次の瞬間、なんと横にいたおばちゃんにその商品をパッと横取りされてしまったのです。
その瞬間に配布が終了。

さて、この文章を読んでお答え下さい。
Aさんの思考・行動で当てはまるものは何番でしょう。複数でも構いません。

①おばちゃんに対し殺意をおぼえる
②おばちゃんに対し抗議し商品を取り返す
③おばちゃんに対し文句を言う
④おばちゃんに対し怒りをおぼえるが、何も言えない
⑤おばちゃんの行動に対し笑ってしまう
⑥おばちゃんの行動に対し感心する
⑦特に何も思わない
⑧その他の行動および感情

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さてどうでしょうか?
特に勘ぐらないで、パッと素直に思ったことです。
さあ何番でしょうか?決めましたか?

まず①~④ですが、精神的なケチ度は④→①の順で高くなっていきます。
例えば、おばちゃんに殺意も覚え、且つ抗議し商品を取り返そうとしたとするならば、それは危険レベルのケチ度といえます。

しかし①~④を選んでしまった人にしてみれば、取られたものを取りもどすのは当然のことで、それは正義であり当然の権利であるという意識が働きます。
確かに一般論としてみれば、その商品を取りもどすために抗議する行為は不自然なものではありません。
ただその行為をカルマの視点から見ると、マイナス的な種を撒いているという状態に当てはまってしまうのです。

では⑤~⑥を選んだ人はどうでしょうか?

商品を取られてしまったことに対して
「ああ取られてしまった(笑)」 「おばちゃん逞しすぎる(笑)」
思わず笑ってしまったり、逆に感心してしまう人もいることでしょう。

この⑤~⑥を選んだ人というのはカルマ的に見ると、大きなマイナスポイントを生み出すことはありません。
ただ、笑ってしまったり、感心してしまうという感情も、実は呆れてしまったという怒りの感情の派生的な感情に過ぎません。
精神的なケチ度はそんなに高くありませんから、人生においても大きな運気の低下に陥ることはありませんが、決してマイナスポイントが無いわけではありません。
ゆるやかなマイナスといったところでしょうか。

次に⑦ですが、特になにも感じないを選んだ人もいるでしょうか?
「まあ仕方ない」と納得できてしまう人です。

偽りのない素直な気持ちでこの⑦を選んだ人というのは、⑤~⑥を選んだ人以上に精神的なケチ度は低くなります。
今回の質問のようなことが実際に実社会で起こったとしても、⑦の精神でいられる人はとても少ないのが現状ですが、こういう精神状態を保てる人というのはマイナスの種を撒く機会が極端に少ないので敵も作りませんし、運気を失わずに生きることができる人です。

では⑧のその他の行動および感情、これを選んだ人はどのくらいいるでしょうか?
おそらく⑧を選んだ人は数パーセントと少ないはずです。また理由が2つに分かれると思います。

ひとつはおばちゃんに対して抱いた感情や行動が①~⑦になかった人です。
ただその場合は表現の違いだけで、基本おばちゃんに対して怒りの気持ちを持ったものであるならば、それはやはり①~⑥の中に当てはまってくるでしょう。マイナスです。


もうひとつの理由として⑧を選んだ人はいるでしょうか?
それは、そもそも無料のサンプル品の人だかりに入ろうとは思わないという人です。

もしあなたがそういった理由で⑧を選んだ場合は、精神的なケチ度が著しく低く、運の良い人生を送れる、もしくはすでに送っている可能性の最も高い人と言えます。


実はこの質問をすると9割以上の人が①~⑥までに収まります。
ほとんどの場合、横取りされたことに対してムッとしてしまう怒りの感情が湧いてしまうのです。
⑦および⑧の後者に当てはまるのは数パーセントに過ぎません。
特に⑧の後者「そもそも無料サンプルを取り合うような人だかりに入りたくない」とまず考えた人は少ないことでしょう。
この感情は精神的なケチ度の高い人にとってはなかなか理解できないところでもありますが、世の中には確実に一定数います。

無料サンプル品を争ってでももらうことを“得”と考えてしまうのは、運気の悪い人の思考です。
でも運気の良い人の思考は違うのです。
仮にそのサンプル品が自分の興味あるものであっても、無料だからという理由でその輪に入って手を伸ばす自分の姿が嫌だと思ってしまいます。
当然、輪に加わりませんから、そもそも争いごとも起こることはありません。

今回のサンプル品の話しはほんの一例に過ぎません。
自分がケチであるかどうかを指し計るような機会は、生活上の様々なときに訪れます。


ケチであるかどうかのボーダーラインを知っておいてください。

それは、その行動や発言や思考が『粗末でいやしい』に当てはまるかどうかです。

無駄をなくし、シンプルに生きることは美しいことです。
しかしそれが度を越えてしまうと、途端に粗末でいやしくなってしまいます。

いやしさが表に出てしまった人ほど、見ていて醜いものはないでしょう。

でも多くの人は“損得”が絡んでくると感情が剥き出しになってしまうのです。必死になってしまう。
自分から得を奪う人を許せない気持ちになりますし、他人の得を妬んでしまいます。

⑧を選ぶ人に対し「気取っている」とか「お高くとまっている」とか「それはお金持ちだからでしょう」などと考えてしまうとしたら、それはまさに粗末でいやしい考え、ケチな人の思考です。

そういう思考のままだと、事あるごとにマイナスの種を撒き続けることになり、たまに気まぐれ的にプラスの種を撒いたとしても全体で言えば大きなマイナスカルマを背負っていますから、運気が上がるわけがないのです。

つまり運の良い人と悪い人の決定的な差というものは、プラスの種蒔きよりも、むしろマイナスの種蒔きの差が顕著に現れているということです。
山を登るのではなく、下る一方では景色が良くなる事はないのです。

運の良い人はカルマ的にマイナスの種を撒かないで済む人生を選んで過ごし、たまに訪れるプラスの種蒔きの機会を得ながら、徐々に運気を上げていきます。


以前、このブログはランキングに参加するための説明記事を載せました。

ブログランキングの参加について

この中で『シェアする気持ちを持って欲しい』という部分があります。

SSSを誰かに伝えることで、人生を生きるヒントを得られる人がいるかもしれない。
その人のために自分で出来る行動をなにか起こすことは、目に見える見返りはないかもしれないけれど、あなたにとっては無駄なことではありません。

こんな記述をしました。

あのエントリから2ヶ月経っても毎日欠かさずクリックしている読者の方がいます。
持続できているのはほんの数人ですが、確実にいます。

最初の頃こそ、いずれ自分に良い形で返ってくるという期待の気持ちも入り混じりながらクリックしていた人も多かったでしょう。
でも今でも持続できている人は、本当に誰かのためにという純粋な気持ちでクリックできていると思います。

なぜならクリックするというのは簡単な作業ですが、簡単だからこそ持続は難しいのです。
クリックすることのモチベーションが自分の損得だけ考えてしまった人は続きません。“得”と“苦”を秤にかけてしまい、すぐにケチな思考に打ち負けます。

僧侶が修行を積むのは煩悩を断ち切るためです。
偉いお坊さんになろうと我慢して修行しているうちは修行は苦でしかありませんが、世のためになれる自分になろうと思えたとき、辛い行も苦でなくなるそうです。

僕が、記事中で「無駄ではないという事がすぐに解る」と書いたのは、まさにここです。
2ヶ月間毎日ブログを開き、クリックしているあなたのその気持ちにケチな考えはありません。
その気持ちの持続こそが運気の山を昇ることができるほんの数パーセントの人の思考なのです。
あなたが得ているその思考は、到達している人にしか解らない思考、やったつもりの創造では補えない思考なのです。

その思考をどうぞこれからも持続して下さい。
1年も続ければ運気が大きく上昇カーブを描き、人生が大きく変わっていくはずです。


では今回の質問で①~⑥に当てはまってしまった人は、今後どういう生き方を心がければいいのでしょうか?

それは自分がケチな思考の持ち主である事をまずは認めましょう。
そしてそのことを正当化してはいけません。ケチから抜け出そうと強く思ってください。

ケチな思考に支配されている時というのは、自分ではなかなか気付きませんから、まずは

「今、私ケチってるな」

こう気付ける自分になることをまずは目指して見ましょう。

ケチは怪事である。
自分の人生がけち臭いものにならないようにするには、自分で自分の臭いに気付ける鼻を持つことなのです。

そして昔ながらのことわざの生き方の実践です。

損して得とれ
急がば回れ
負けるが勝ち

この生き方には、言葉以上にカルマの理論が詰まっているのです。


さて、パート4まで続いた『運の良し悪しを決めているのは』も今回でラストです。
黒カルマや魂などのように目に見えないものではなく、自分の思考や行動で人生をコントロールできる方法としての知識です。
実践するもしないも自分で決めることが出来ます。

見渡してみれば解るように、運の良い人は、悪い人に比べると圧倒的に人数が少ないでしょう。
でもそれは仕方ありません。どんな山も山頂は狭いものです。

山を昇るには、休んでもいいですが途中で下らないことが重要だということ。
山を下らない為の目安となる生き方こそが、ケチにならない生き方なのです。


さあ本日の講義は終了!
長文疲れました。お茶沸かして飲みます(笑)



バンコクより
白石

毎日をおもしろくするには

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あなたは朝起きてまず何を思うでしょう。

「ああ今日も面倒な一日がはじまるな」

寝ぼけまなこにだるさを覚えながら、こんなふうなことを考えて一日をスタートさせていませんか?。

多くの人は、黙っていても訪れる“今日という一日”に対して特別な感情を持っているわけではありません。
“今日という一日”に特になにも期待もぜずに、これといって特徴のない朝を迎えています。


「どうせ今日も昨日と大して変わらない一日に決まっている」

じつはこうした一日の最初の考えが、その日の方向性を決めてしまっているということがあるのです。

毎日が詰まらないとなげく人は起きた瞬間からその日をあきらめ、面白くない一日だと決め付けてしまいます。
でもそれでは面白いことなど起こるはずがありません。


詰まらないと仮定して始める一日は、まず新しいことや変化を受け入れようというチャレンジングな意欲が生まれません。

今日を平穏無事にやり過ごし、はやく家に帰ってゆっくりすること。

こうした保守的な気持ちが先行するので目線は足元にしか向かわず、広い視野でなにかを発見して新しいイノベーションを生み出そうというような冒険的な精神は持たなくなります。

たとえ目の前をチャンスが横切っても、それはチャンスと認識されずに景色と同化してしまうのです。
それはまるで、毎日、同じような線をトレースするだけのモノクロの鉛筆画のような人生です。
気付きやヒラメキといった、人生に色をつける絵の具を手に入れることが出来ません。


「今日をどんなおもしろい一日に出来るだろう」

ためしに明日の朝からしばらくの間、こんな考えで布団から飛び起きてみてください。

たったそれだけの違いでマインドは上向きになり、スタートダッシュが決まります。
今日という一日を昨日とは切り離して、新鮮な気持ちで迎え入れてみるのです。

そうすれば同じような朝でも昨日と今日は違うことにすぐに気付くでしょう。
通勤、通学の景色も聞こえてくる音も昨日と今日は違う、食べるものが同じでも味や満足感が違う、朝の挨拶だって気持ちよくできるはずです。


毎日を面白くすることは難しいことではありません。

自分から変化を受け入れる体制を整え、面白いことを探す姿勢をもつこと。
なによりも期待感を持って毎日を過ごすことです。

面白いことは“探している人”にしか見えないのです。



バンコクより
白石

smiling again