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妄想に逃げるということ

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人生がまったく前進しない。思い通りにならない。

こう感じている人は、かなりの確率で過剰な妄想家が多いのです。
四六時中、素晴らしい自分の人生を思い描いてその一時の快楽に溺れます。
それで何となく達成感を感じ、その場は満足します。

しかし妄想は脳内でのことなので、当然現実世界は1ミリも動いていません。
「こうやれば出来る」「自分ならできる」
やってもいないのに、自我とうぬぼれだけがどんどん大きくなってしまいます。

妄想は過去のつなぎ合わせなので、妄想家の人の魂は今にいません。
肉体だけが現実世界に置き去りになり、魂は過去を浮遊しているのです。

妄想はある意味麻薬のようなものです。
現実の時間を止めて、快楽をむさぼるだけだからです。
妄想にとらわれてしまった人は、どんどん現実社会から置いて行かれます。
そして切羽詰ってしまうと、とんでもない短絡的な行動に走ります。

そうならない為には、今、現実にあなたの目の前にあるものを“今”しっかりと乗越えること。
その繰り返しをたんたんとこなすことでのみ、人は未来へ進むことが出来ます。


白石

他人に好かれる自分になる方法 ―魂のリプライ―

今回からはじまる新コーナー『魂のリプライ』
このブログ読者の方からいただいた相談や質問に白石がお答えするコーナーです。

先日告知し募集させてもらったんですが、早速たくさんの方からメールを頂戴しました。
この場をかりてお礼申し上げます。

相談・質問にお答えできるのは1回のエントリにつきお一人ですから全ての方にお答えすることはできませんが、今日ご自分の相談・質問が掲載されなかったからといって送っていただいたものが無効になるわけではありません。
毎回、過去にさかのぼって全てのメールを対象に題材を選ばせてもらうので、忘れていたくらいに掲載されることがあるかもしれません。
ガッカリしないで待ってみて下さい。


さて第一回目の相談はこちらの方です。

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白石さま
初めまして、いつもブログを拝見させて頂いております。

所沢市在中、Aと申します。

質問させて下さい。
34年間悩み続けておりまして、中々自分に自信がもてず好きになれず、こんな自分を変えたくて、スピリチュアル系占いに行っり、ブログ・自己啓発本等を読んだりしていますが、そういう類いの本等読めば読むほど、やっぱり自分は変われないと思い、更に落ち込んだり。

物心ついた時から周りが羨ましく思いながら生きてきました。自分は愛される存在ではないんだと、存在価値の無い自分を忌み嫌っていました。

なので余計、人が恐くなる時があり友達出来て話ししてても、嫌われるのではないかとビクついて居心地悪くなり自分から離れてしまうの繰り返しで。
そして、あぁ~またやってしまった、何やってんだと自分を責めてしまう、だから自分は駄目なんだと…。
こんな自分なので、彼氏も出来ず友達と呼べるような人がいません。

こんな寂しがり屋で弱い自分から抜け出したい、自然に人が集まるような人になりたい。
マイナス思考から抜け出したい、自分に自信を持ち自分を好きになりたい、キラキラ輝いてみたい。
が、どうしたら自分を変えれるのかが全くわからず。
どう努力したらいいのかがわからず。
ダメダメ過ぎて全然努力が足りないとは思います。
余計自分が消えたくなります。

こんな自分を変えるにはどうしたらいいのでしょうか?

くだらない質問で申し訳ございません。よろしくお願いいたします。

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初回にこの相談を選ばせてもらったのは、このAさんのような質問がとても多いからです。

他人にくらべて自分の駄目さ加減に嫌気がさしてきてしまうといった内容なんだけれども、Aさんはそういった現状から脱するために“自己啓発”の本を読んだりと努力はしているよう。
でもなかなか現状は変わらないようです。


なぜ自分は人に好かれない、愛されないのか?
このことは考えれば考えるほど解らなくなっていくことでしょう。


普段、頭の中で妄想する自分というのはすごくアクティブで、優しくて楽しくて、何かを言えばみんなから笑顔で反応されて、素敵な人に囲まれている自分のはず。

なのに現実の自分の駄目さ加減といったら(笑)
もうその差には溜息しか出ない。
そしていつも結論として落ち着くのは「自分に努力が足りないから」

でもその結論ってあんまり意味のないことだろうと僕は思うのだ。

言うなれば“努力”というのは、格好の逃げ言葉になっているだけに過ぎない。

「もっと努力していれば・・・」というように過去の自分を批判することで、今の自分に正当性をもたせてバランスを保っている。
ある意味、都合のいいオールマイティな呪文のようなものかもしれない。

「では、あなたは具体的に何の努力が足りなかったのですか?」

もしこう突っ込まれたらなんと答えるだろうか?
おそらくほとんどの場合、そこまでは何も考えていないのではないだろうか?

おなじようなものに「がんばります」もある(笑)

でもなにをどう具体的に頑張るのかを考えて発言している人は実は多くない。
とりあえず「頑張ります」と言っておけば、あとは責任は未来の自分に移すことが出来る。

普段何気なしに使う「努力がたりなかった」も「頑張ります」も、実は今の自分の責任を回避して正当化するための呪文なのだ。


自分が本当に変わりたいと思うのなら、まずはこの呪文を封印しよう。
この便利な呪文に頼っているうちは、きっと今後もなにも変わらない。

もしどうしても使いたいのなら
「何をいつまでにどう頑張るのか」を宣言してみて欲しい。
過去を反省するのなら「何がどう駄目だったのか?どう努力が足りなかったのか?」を明確にして欲しいと思うのだ。

それが出来、はじめて“今の自分”に責任が課せられ、いまとは違うゾーンへと繋がっていくことになる。


Aさんが、なぜ他人に好かれないのか?の答えは、そこにあるといってもいいと思う。
Aさんはいつも同じゾーンにいるのだ。

そのゾーンは人呼んで『 とりあえずゾーン 』という(笑)

何も考えずに言う「頑張ります」なんていうのは、僕に言わせれば「頑張らないこと」と宣言しているようにしか聴こえない。
耳には聴こえないけれども、「頑張ります」の前に「とりあえず」という心の言葉が聴こえるからである。

『とりあえずゾーン』の住人は決して輝かない。
なぜならまったく魅力がないからだ。

他人に好かれる人、輝いている人を語る言葉はいろいろある。
あの人は優しい、あの人は仕事が出来る、あの人は頭がいい、あの人は美しい・・
いろいろあるけれど、僕はそれらをひとまとめにしている。
それは・・・


“一生懸命”な人は、他人に好かれる

このひとことで集約できるのではないだろうか?

まわりを見渡して素敵な人や、好かれている人を思い浮かべてみてほしい。
それが仕事であれ、恋であれ、家庭であれ、趣味であれ、学びであれ、魅力的な人はいつもなにかに一生懸命だ。

それは他人の眼を気にしての一生懸命ではなくて、ひたすら自分の内側をみた一生懸命。
一生懸命になにかに打ち込んでいる人いうのは、その存在自体に魅力を感じるし、実際に魂もパワーを放っている。
人はそのパワーに魅了され、あやかりたいと集まってくるのだ。


ただこの“一生懸命”にも輝かないものがある。
一生懸命に悩んでいても、一生懸命に他人を恨んでいても、一生懸命に自己弁護してても誰もあなたを美しいとは思わないし、尊敬もしない。
一生懸命に妄想してても、誰も魅力は感じない。

一心不乱に自分を磨いている人や、他人を敬う“高める一生懸命”に対してのみ輝きは放たれるのだ。


ではここでAさんに問いかけたい。

『あなたの“一生懸命”ってなんだろうか??』

「私の一生懸命はこれです!」と言い切れるものがあるだろうか?


もしかしたら何も思いつかないかもしれない。
そんなに簡単に打ち込めるものなんて見つからない。
そう思うかもしれない。

でも今はそれでも構わないのです。

一生懸命は難しくなんかない、だれにでもすぐそばに一生懸命はあるということをまずは知って欲しいと思う。

例えば

一生懸命に仲良くする。
一生懸命に場を盛り上げようとする。
一生懸命に話しを聞こうとする。
一生懸命に慰めようとする。
一生懸命に助けようとする。

一生懸命は趣味や仕事や恋ばかりではありません。
他人との接し方であれ、一生懸命はあるのです。

「一生懸命」と「とりあえず」は格が違う重さをもっています。
ゾーンが違うのです。

周りに人が寄ってこないのは、あなたが「とりあえずゾーン」にいるから。
他人に好かれようとして、外壁の体裁ばかりを整えようととりあえずペンキを塗ってごまかそうとしているからです。
でもそんなものは、みんなお見通しなのです。

他人の眼を気にした“とりあえず”の努力ならいらない。

キラキラ輝いている人は外なんか見ていないのです。
みんな自分だけの一生懸命を持っていて、そこに集中しています。
他人の目など気にしていません。というよりもそんなことすらも考えない。

ここに人生のヒントがある。
他人に好かれるということは、あとから結果として着いてくるものであって、自分から呼び込むものではないということ。

ひとつだけでいい。
Aさんも、他人の眼を忘れてしまえるような、一心不乱に一生懸命になれるものを残りの人生で一つ見つけてみよう。
それが見つかれば、他人の眼など気にならなくなる。
でも結果として、気付けば人に囲まれているはずなのです。


白石

攻撃型黒カルマのメカニズムとは

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さて攻撃型黒カルマについて前回からの続きとなります。

今回は黒カルマを他人に飛ばすということのメカニズムについて考えてみたいと思います。

そもそも削れてしまった魂とはいえ、もともとは自分のものですから通常は本体となる魂の周りを浮遊している状態です。
浮遊したカスは本体の魂に離されまいという力が働きますが、一度離れてしまった削りカスがふたたび元の本体に戻ることはありません。
大きな魚についてまわるコバンザメのように、本体の魂の元を着かず離れずでまとわりつくのです。

ところがその量が許容範囲を超えて増えてくると、本体と浮遊量の比重が段々と反比例していきます。
魂の絶対量が落ち、反対に削りカスの量が多くなるのです。

とはいってもどんなに黒カルマの多い人でも、本体となる魂の大きさに比べれば1/10にも満たない量なんですが、それでもそれほどに魂を削ってしまう状態になれば、相当に本体が硬化していますし痩せています。
そういった末期状態になってくると、本体の魂の引力が低下してきてしまうのです。

もちろん魂とカスの引き付けあう力は万有引力ではありませんが、それに似た力が働きあっていると考えられます。
それは星とそのまわりを回る衛星の関係のようなものといえます。
もし地球がどんどん小さくなっていったら、衛星である月に対する引力は弱まっていくでしょう。
そして何かの拍子に地球の軌道を外れてしまうことが起こり得ます。
それと同じような現象が、魂と黒カルマの間でも起こりやすくなってくるのです。

つまり攻撃型黒カルマとは、削りカスの力だけで飛ぶわけではありません。
本体となる魂の劣化により、引付け力が落ちることが大きな原因なのです。

そして引付け力の低下した本体魂に更なるストレスを掛け続けると、魂は平静を保てなくなっていきます。
細振動を繰り返し、制御不能になっていきます。

こうなってしまうと、それを包んでいる人体にも大きな影響が出てきます。


次回は、末期状態の魂をかかえた人体変化について講義していきましょう。
今日はここまでです。



白石

相談・質問募集します

このブログで白石に人生相談や質問をしてみたい方を大募集です!


◆内容は恋愛・仕事・家族の相談、世の中の疑問に思うこと、どんなものでも構いませんが、一部の人しか理解できないような相談や、個人が特定されてしまうような相談はご遠慮ください。

◆人間関係などの相談で感情などを知りたい場合は、対象者の住所(解るところまでで結構です)・性別・生年月日・お名前をご記入下さい。これらはもちろん公開はしません。
必要ならばちょっとだけ魂に触れさせて貰いリーディングすることもあります。

◆相談・質問は送って下さっても、選ばれない場合もありますのでご了承ください。
選ばれた相談・質問には白石がこのブログでお答えします。



******相談・質問の送り先**********

    volforce@gmail.com

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人生ゲーム

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昔からある定番のボードゲームに『人生ゲーム』がある。
皆さんも子供の頃やったことがあるだろう。

このゲームのルールをいまさら説明する必要もないと思う。
成長し、家族をもうけ、金を稼ぎ、人生の成功をめざしてマスを進めていくあのゲームだ。

このゲームは最終的にお金をもうけることを目的としている。
株や土地売買、時には子供まで売って!? 勝利を目指す(笑)
※子供を売るというルールは昔のルールにあったようで、今のものには当然ありません。

このゲームは1960年にアメリカで生まれたゲームだが、これほど息の長い人気を保っているのは「人生」という誰もが共感を憶えるものを主体としたゲームであるからだろうと思う。

人はこのボードゲームに自分の人生を掛け合せ、理想の人生を体感すべくコマの車に乗り込むのだ。

しかし実際の人の一生というものは、当然ながら土地や株を売買しながら大金を稼ぐボードゲームのそれとはだいぶ違うものある。
実際の生活は多くの場合毎日を生きるのにも必死で、細々とした悩みもあるし、ゲームのような華やかなイベントなんてそうそうあるものではない。
人生ゲームなど所詮は子供の遊びだというのが、ほとんどの大人の考えであろうか。

でも僕はこの『人生ゲーム』というものは唯一無比の素晴らしいものであると思う。
このゲームから学べるもの、大切な人生のコンセプトがあるからだ。


それは人生を勝ち抜くということだろうか?
それとも社会の厳しさだろうか?
もしくはお金の大切さだろうか?
家族の絆?夢を持つこと? 困難に立ち向かうこと?

いやどれも違う。
そんな気持ちや現状はケースバイケースで簡単に揺らいでしまうものだと思う。

僕が『人生ゲーム』から学びとるべきだと思う最大の教えは、
『人生』とは所詮『遊び』であるということだ。


人間の寿命が80年あるとするならば、
生きることとは80年使う遊びなのだ。

仕事や失恋や結婚など様々なイベントを乗り越えて、最終的に天寿を全うしたところがゴール。

ゲームだから良いことばかりではなく悪いことも起こる。
お金を稼ぐ人もいれば、稼げない人もいる。
家族に恵まれる人もいれば、生涯独身で過ごす人もいる。
良いことが多く起こる人もいれば、悪いことの方が多い人もいる。

でも、それも含めて人生は『遊び』なのだから楽しまなくてはならない。

仕事人生だと言う人も、恋愛体質だと言う人も、家族主義な人も、身の回りに起こる幸も不幸も、すべて遊びという大枠の中での出来事にすぎない。

このゲームの勝敗はお金の有無や名誉ではない、あえて勝敗を付けるとするならば、人生というゲームを最後まで楽しんだかどうかだ。


人は手ぶらで生まれて、手ぶらで死んでいく。

人生ゲームで手に入れたものは、パンの一かけらすらあの世に持って行くことはできないが、ただひとつだけ持っていけるもの。

それは『人生』というゲームを楽しんだかどうかという感想だけなのだ。


白石

smiling again