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運の良し悪しを決めているのは part4

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運の良い人と悪い人、なぜ運気は人によって差が出るのでしょうか?
運が悪い人は一生運の悪いままなのでしょうか?

今回の魂の智見は、運気について真実の知識を伝えるシリーズ『運の良し悪しを決めているのは part4』です。
このシリーズのファイナルとなります。
今日始めてこのエントリを読む人はまずpart1~3を先に読んで下さい。


運の良し悪しを決めているのは
運の良し悪しを決めているのは part2
運の良し悪しを決めているのは part3


さて前回のハイライトです。


~~~~~前回のハイライト~~~~~

運気を上げる為の種を撒くのは意外に大変なことである

運気の良い人も、実は特別多くの良い種を撒いているわけではない

運の良い人と悪い人の差は“ケチ”であるかどうか

“ケチ”には様々な種類があり、実は“ケチ”こそが不幸を呼び込む根源になっている

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前回はこういったところで講義は終了していました。
今回の講義は“ケチ”についての考察です。

なぜケチであることが、運気を下げてしまうことに繋がるのでしょうか?
例えばお金にケチな人の行動といえば、貯金をする、常に節約に努め、お金を遣わない。
一般的にこういう人のことをケチと言います。

たしかに無駄をなくし節約に努めることはいいことです。無駄に浪費することが良いことであるはずがありません。
では何をもってケチというのでしょうか?いったい節約とケチにはどんな差があるというのでしょう?


まず“ケチ”という言葉の語源ですが、これは平安言葉の『怪事(けじ)』から来ています。

怪事とは不吉ごとを指す言葉で、今でも使われる「ケチがつく」という言葉も元は「怪事がつく」から来ていて、縁起の悪いものが身に付いてしまった様子を指したネガティブな言葉です。
その後、江戸時代あたりから現代の意味になっていったようですが、古来からケチという言葉が持つ意味合いは決して良いものではなかったわけです。

これを踏まえてケチには定義があるのです。


以下の文を読んでパッと思いついたことで、あなたの精神的なケチ度を見てみましょう。

  • -----------------------------------------------

Aさんは買い物をしていると人だかりを見つけました。
見ると無料でサンプル品を配っているようです。それを手に入れようと人が殺到しています。
そのサンプル品はAさんにとってとても魅力的な物です。
Aさんは他人を掻き分け、やっと伸ばした手に商品をゲットしました。
しかし次の瞬間、なんと横にいたおばちゃんにその商品をパッと横取りされてしまったのです。
その瞬間に配布が終了。

さて、この文章を読んでお答え下さい。
Aさんの思考・行動で当てはまるものは何番でしょう。複数でも構いません。

①おばちゃんに対し殺意をおぼえる
②おばちゃんに対し抗議し商品を取り返す
③おばちゃんに対し文句を言う
④おばちゃんに対し怒りをおぼえるが、何も言えない
⑤おばちゃんの行動に対し笑ってしまう
⑥おばちゃんの行動に対し感心する
⑦特に何も思わない
⑧その他の行動および感情

  • -----------------------------------------------

さてどうでしょうか?
特に勘ぐらないで、パッと素直に思ったことです。
さあ何番でしょうか?決めましたか?

まず①~④ですが、精神的なケチ度は④→①の順で高くなっていきます。
例えば、おばちゃんに殺意も覚え、且つ抗議し商品を取り返そうとしたとするならば、それは危険レベルのケチ度といえます。

しかし①~④を選んでしまった人にしてみれば、取られたものを取りもどすのは当然のことで、それは正義であり当然の権利であるという意識が働きます。
確かに一般論としてみれば、その商品を取りもどすために抗議する行為は不自然なものではありません。
ただその行為をカルマの視点から見ると、マイナス的な種を撒いているという状態に当てはまってしまうのです。

では⑤~⑥を選んだ人はどうでしょうか?

商品を取られてしまったことに対して
「ああ取られてしまった(笑)」 「おばちゃん逞しすぎる(笑)」
思わず笑ってしまったり、逆に感心してしまう人もいることでしょう。

この⑤~⑥を選んだ人というのはカルマ的に見ると、大きなマイナスポイントを生み出すことはありません。
ただ、笑ってしまったり、感心してしまうという感情も、実は呆れてしまったという怒りの感情の派生的な感情に過ぎません。
精神的なケチ度はそんなに高くありませんから、人生においても大きな運気の低下に陥ることはありませんが、決してマイナスポイントが無いわけではありません。
ゆるやかなマイナスといったところでしょうか。

次に⑦ですが、特になにも感じないを選んだ人もいるでしょうか?
「まあ仕方ない」と納得できてしまう人です。

偽りのない素直な気持ちでこの⑦を選んだ人というのは、⑤~⑥を選んだ人以上に精神的なケチ度は低くなります。
今回の質問のようなことが実際に実社会で起こったとしても、⑦の精神でいられる人はとても少ないのが現状ですが、こういう精神状態を保てる人というのはマイナスの種を撒く機会が極端に少ないので敵も作りませんし、運気を失わずに生きることができる人です。

では⑧のその他の行動および感情、これを選んだ人はどのくらいいるでしょうか?
おそらく⑧を選んだ人は数パーセントと少ないはずです。また理由が2つに分かれると思います。

ひとつはおばちゃんに対して抱いた感情や行動が①~⑦になかった人です。
ただその場合は表現の違いだけで、基本おばちゃんに対して怒りの気持ちを持ったものであるならば、それはやはり①~⑥の中に当てはまってくるでしょう。マイナスです。


もうひとつの理由として⑧を選んだ人はいるでしょうか?
それは、そもそも無料のサンプル品の人だかりに入ろうとは思わないという人です。

もしあなたがそういった理由で⑧を選んだ場合は、精神的なケチ度が著しく低く、運の良い人生を送れる、もしくはすでに送っている可能性の最も高い人と言えます。


実はこの質問をすると9割以上の人が①~⑥までに収まります。
ほとんどの場合、横取りされたことに対してムッとしてしまう怒りの感情が湧いてしまうのです。
⑦および⑧の後者に当てはまるのは数パーセントに過ぎません。
特に⑧の後者「そもそも無料サンプルを取り合うような人だかりに入りたくない」とまず考えた人は少ないことでしょう。
この感情は精神的なケチ度の高い人にとってはなかなか理解できないところでもありますが、世の中には確実に一定数います。

無料サンプル品を争ってでももらうことを“得”と考えてしまうのは、運気の悪い人の思考です。
でも運気の良い人の思考は違うのです。
仮にそのサンプル品が自分の興味あるものであっても、無料だからという理由でその輪に入って手を伸ばす自分の姿が嫌だと思ってしまいます。
当然、輪に加わりませんから、そもそも争いごとも起こることはありません。

今回のサンプル品の話しはほんの一例に過ぎません。
自分がケチであるかどうかを指し計るような機会は、生活上の様々なときに訪れます。


ケチであるかどうかのボーダーラインを知っておいてください。

それは、その行動や発言や思考が『粗末でいやしい』に当てはまるかどうかです。

無駄をなくし、シンプルに生きることは美しいことです。
しかしそれが度を越えてしまうと、途端に粗末でいやしくなってしまいます。

いやしさが表に出てしまった人ほど、見ていて醜いものはないでしょう。

でも多くの人は“損得”が絡んでくると感情が剥き出しになってしまうのです。必死になってしまう。
自分から得を奪う人を許せない気持ちになりますし、他人の得を妬んでしまいます。

⑧を選ぶ人に対し「気取っている」とか「お高くとまっている」とか「それはお金持ちだからでしょう」などと考えてしまうとしたら、それはまさに粗末でいやしい考え、ケチな人の思考です。

そういう思考のままだと、事あるごとにマイナスの種を撒き続けることになり、たまに気まぐれ的にプラスの種を撒いたとしても全体で言えば大きなマイナスカルマを背負っていますから、運気が上がるわけがないのです。

つまり運の良い人と悪い人の決定的な差というものは、プラスの種蒔きよりも、むしろマイナスの種蒔きの差が顕著に現れているということです。
山を登るのではなく、下る一方では景色が良くなる事はないのです。

運の良い人はカルマ的にマイナスの種を撒かないで済む人生を選んで過ごし、たまに訪れるプラスの種蒔きの機会を得ながら、徐々に運気を上げていきます。


以前、このブログはランキングに参加するための説明記事を載せました。

ブログランキングの参加について

この中で『シェアする気持ちを持って欲しい』という部分があります。

SSSを誰かに伝えることで、人生を生きるヒントを得られる人がいるかもしれない。
その人のために自分で出来る行動をなにか起こすことは、目に見える見返りはないかもしれないけれど、あなたにとっては無駄なことではありません。

こんな記述をしました。

あのエントリから2ヶ月経っても毎日欠かさずクリックしている読者の方がいます。
持続できているのはほんの数人ですが、確実にいます。

最初の頃こそ、いずれ自分に良い形で返ってくるという期待の気持ちも入り混じりながらクリックしていた人も多かったでしょう。
でも今でも持続できている人は、本当に誰かのためにという純粋な気持ちでクリックできていると思います。

なぜならクリックするというのは簡単な作業ですが、簡単だからこそ持続は難しいのです。
クリックすることのモチベーションが自分の損得だけ考えてしまった人は続きません。“得”と“苦”を秤にかけてしまい、すぐにケチな思考に打ち負けます。

僧侶が修行を積むのは煩悩を断ち切るためです。
偉いお坊さんになろうと我慢して修行しているうちは修行は苦でしかありませんが、世のためになれる自分になろうと思えたとき、辛い行も苦でなくなるそうです。

僕が、記事中で「無駄ではないという事がすぐに解る」と書いたのは、まさにここです。
2ヶ月間毎日ブログを開き、クリックしているあなたのその気持ちにケチな考えはありません。
その気持ちの持続こそが運気の山を昇ることができるほんの数パーセントの人の思考なのです。
あなたが得ているその思考は、到達している人にしか解らない思考、やったつもりの創造では補えない思考なのです。

その思考をどうぞこれからも持続して下さい。
1年も続ければ運気が大きく上昇カーブを描き、人生が大きく変わっていくはずです。


では今回の質問で①~⑥に当てはまってしまった人は、今後どういう生き方を心がければいいのでしょうか?

それは自分がケチな思考の持ち主である事をまずは認めましょう。
そしてそのことを正当化してはいけません。ケチから抜け出そうと強く思ってください。

ケチな思考に支配されている時というのは、自分ではなかなか気付きませんから、まずは

「今、私ケチってるな」

こう気付ける自分になることをまずは目指して見ましょう。

ケチは怪事である。
自分の人生がけち臭いものにならないようにするには、自分で自分の臭いに気付ける鼻を持つことなのです。

そして昔ながらのことわざの生き方の実践です。

損して得とれ
急がば回れ
負けるが勝ち

この生き方には、言葉以上にカルマの理論が詰まっているのです。


さて、パート4まで続いた『運の良し悪しを決めているのは』も今回でラストです。
黒カルマや魂などのように目に見えないものではなく、自分の思考や行動で人生をコントロールできる方法としての知識です。
実践するもしないも自分で決めることが出来ます。

見渡してみれば解るように、運の良い人は、悪い人に比べると圧倒的に人数が少ないでしょう。
でもそれは仕方ありません。どんな山も山頂は狭いものです。

山を昇るには、休んでもいいですが途中で下らないことが重要だということ。
山を下らない為の目安となる生き方こそが、ケチにならない生き方なのです。


さあ本日の講義は終了!
長文疲れました。お茶沸かして飲みます(笑)



バンコクより
白石

運の良し悪しを決めているのは part3

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お待たせしました。
今回の魂の智見は『運の良し悪しを決めているのは part3』です。

今日始めてこのエントリを読む人はまずpart1~2を先に読んで下さい。

運の良し悪しを決めているのは
運の良し悪しを決めているのは part2


さて前回からの続きです。


~~~~~前回のハイライト~~~~~

未来の運気を決定付けているのは過去の自分である。

過去に生み出した思考、言動、行動が、種となり、時を経て成長し我がもとへ実を落とす。

良い運気をもたらす種とはいったいどんなものなのか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

“過去”の自分の行動や思考が“今”を形つくっているということは、逆にいえば“今”これからする自分の行動や思考が“未来”を形つくっているということでもあります。
つまり今をどういう心構えで過ごすのかということは、運の良い悪いに直接的にかかわってくる大切な要素となりえるんです。

もしあなたが今の自分に良い運気を感じないとするならば、それは過去の自分の撒いた種に問題があったということ。
今後新たに撒きはじめる種は、将来的に良質な実をつけるものに切り替えていくことが重要になってきます。

とは言うものの、何をもって良質な種といえるのかを知っておかないことには切り替えようがありません。
具体的にどのような行動が、未来に良質な実をつける種となりうるのか?
おそらく皆さんがすぐに思いつくのは、

良いことをすればいいのでは?
努力することが大事なんでしょ。
他人に優しくすれば良い実がなるのでは?

こういったことをすぐに思いついたのではないでしょうか?

たしかにカルマの法則に沿っていえばこれらは大道です、外れではありません。
きっと白石も次回のpert3ではそういうことを書くに違いない。そう予想していた読者も多かったとも思います。

前回のエントリでも述べたように善因善果(ぜんいんぜんか)、悪因悪果(あくいんあっか)は人生のロジックの基本のキといえるくらい大切なことです。
でもこのへんのことを記述している本やブログもたくさんあるでしょうし、僕もこのブログで更に踏み込んですでにお伝えしてありますので今回はそこは書きません。読んでいない方はぜひお読み下さい。

本当の善行
善行と偽善の大きな違いとは?

このエントリ『本当の善行』の中で満員電車でお年寄りに席をゆずるか否か?の話しが出てきます。
でもこういうシチュエーションはそうそう多くあるものではないですし、仮にあったとしても瞬間的に裏を考えずに行動を取れるようになるには常にそれなりの心構えが必要です。
(皆さんからのコメントにも、自然に行動することへの難しさに対する記述がありましたね)


でもぶっちゃけて言いますが、きっと皆さんの中にもこんな疑問を覚えた人は多いのではないでしょうか?


日々、良いことを実践しつづけることって果たして出来るものなのか?

そもそも良いことをするチャンスがあれば進んでしようと思ったとしても、その機会って実はそれほど多くないのが現実ではないのか?


良い種を撒く瞬間を待ち続けていても、なかなか訪れないからそのうちに忘れてしまって、チャンスが過ぎ去った後にハッと思い出して、「ああ、今は良い種を撒くチャンスだったのに・・・」

こんなことのほうが多いかもしれません。


良い種を撒きたいけど、撒くチャンスがない。
具体的になにをどうすればいいのか解らない。

これが普通に生活している人の感覚なんだろうと思います。
結局、今日も何が出来たという実感も無く過ぎ去っていくのです。


でも世の中には、実際に良い運気を保っている人もいるわけで、いったい運の良い人と悪い人の決定的な差というものはどこにあるのか? 運の良い人というのは、いつ、どうやって種を撒いているのか?
ここが最大の疑問になってくるわけです。

運の良い人には、毎日お年寄りに席を譲るようなシチュエーションが訪れているのでしょうか?

いやいやそんなことは、もちろんないのです。


では一体??



さあいよいよ今回のお話しの佳境に入ってきましたが、前回までのパターンだとここでお茶やトムヤムクンが沸騰してしまっていました(笑)


でも今回は大丈夫です、安心してください。
今日は何も火にかけていません(笑)
話しをもとに戻します。


運の良い人と悪い人の決定的な差とはいったい何なのか?ということ。


それは運の良い人にあって、運の悪い人にないもの

いや逆です。

運の良い人になくて、運の悪い人にあるものが答えなのです。


それが何なのか解りますか?


それはズバリ!



“ケチ”です。けちんぼのケチです。



「ケチ? シライシ突然なに言ってんの?」こう思った人多そうです(笑)


ケチというと皆さんは、お金にシビアな人という印象を思い浮かべる事でしょう。
もちろんその印象は正解なんですが、でも僕の言う“ケチ”とはお金だけの話しではありません。

運の悪い人に共通すること。
それはすべてにおいて“ケチ”になってしまっているということなんです。

お金だけでなく、行動もケチになり、発言もケチになり、思考もケチになり、対人関係や時間にもケチになる。


これはどういうことなのか?


運の悪い人は、すべての行動の基本が自分にとって「得か損か」「面倒か楽か」「苦しいか快楽か」で決めてしまうのです。
与えるということに対して、対価を求め、それが得られないのなら動こうとはしません。


お年寄りに席をゆずる話しに例えれば、席を立つこと(行動)が

譲ったことで何も得るものが無さそうだから立たない
面倒だから立たない
立つことは体力的に苦痛だから立たない
目立って恥ずかしいから立たない

こういった何らかの理由を頭につけて、行動することを拒絶するところから入ります。
つまり行動するということに対してケチになってしまっているのです。

人がケチになるシチュエーションは日常的にかなり頻繁におこります。
他人に何かを聞かれたとして、答えることや教えることを惜しんでしまうこともあるかもしれません。
これは他人に自分の知識を与えるなんて勿体無いとケチになってしまうのです。

また、友達や知人を紹介することに対してケチになったり、他人のために時間を割くことを面倒だとケチになったり、ケチな考えや行動に支配されてしまうことはとても多いのです。


でもなぜケチになることがカルマ的に良くないことなのでしょうか?
なんとなくケチであるということは節約をイメージさせますし、しっかり者も連想させます。

でも実は、ケチな人は知らず知らず未来に不吉なことを呼び寄せているという衝撃の事実が隠されているのです。


次回の“魂の智見”ではケチが呼び込むものにクローズアップし、運の良し悪しを左右する本当の違いをお伝えしたいと思います。
ではまた(笑)



バンコクより
白石

運の良し悪しを決めているのは part2

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さあ、今日の魂の智見は前回の続きのお話しをしましょう。

たしか前回は運の良し悪しについて疑問を投げかけたところで、火にかけていたお茶が沸いてしまい、途中で話しが終わってしまったんですよね(笑)

いや失礼しました。今日はもうお茶を頂いたので大丈夫です。

~~~~~前回のハイライト~~~~~

あなたに訪れる幸運や不運は、いつ、誰が、どのように決めているのか?

実は、運の良い悪いは、○○○が決めています。

○○○は24時間常にあなたを監視し、あなたの人生の舵を握り、あなたの運命を左右します。

さて、あなたにとって重要な○○○とは一体?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こんな終わり方でした。
忘れてしまった人は前回のエントリを読んでください。

運の良し悪しを決めているのは

さあ、みなさんは○○○のところにどんな言葉が入ると思いましたか?
自分を24時間監視して、運命を左右させている○○○という存在。
そもそも、そんな運命的にも重要な存在が、皆さんのそばにあるということを皆さんは知っていたでしょうか?

ちなみに○○○は行動を監視するだけでなく、あなたの考えている事や、ささいな思い付きまでのすべてを見張っているんですよ。
そしてあなたのことを採点し、あなたに適切な未来を“運命”として届けるのです。

あなたはその○○○からは決して逃げられません。
どんな場所に隠れようとも、あなたのすぐそばであなたを見張り続けているのです。

それってお風呂の中やトイレの中も見られているってことですよ。
なんだか不気味で陰湿なやつだと思いませんか?

断りもなく勝手に自分のことを監視し続けて、しかも運命の採点までしているなんて、まるでストーカーな試験官です(笑)

しかもどうせ採点するなら、もっと甘くしろと言いたくないですか?
「もっと運を良くしてよ」「もっといい人生をプレゼントしてよ」と○○○に一言くらい文句や嫌味でも言いたくなりませんか?

そう思った方はぜひ言ってやって下さい。心の中で叫んでください。
○○○は心の中の声も聞こえるので、しっかりとやつの耳に入ります。

「お前、しっかり仕事しろ!」「もっと良い人生にしろ!!」


どうですか?言ってやりましたか?

そのくらい強く言わないと、やつはへこたれませんし変わりませんからね。
なかなか強情で頑固なやつなんです。自分っていうやつは。


ん?

ああいけないいけない、うっかり答えを言ってしまいました(笑)
もっと引っ張ろうと思ったんですが、いやいやそうなんです。

○○○のなかに入る言葉、それはあなた、“自分”です。
24時間あなたを監視して、あなたの採点をして、あなたに適合した未来を届けるストーカーな試験官は“あなた”自身だったのです。

どうでしょうか?判っていた人もいますか?
まさか皆さんの中には、自分に向かって「しっかりしろ!!」とか「馬鹿!アホ!」とか言った人はいないですよね?(笑)


あなたの運の良し悪しを決めるもの。
実はそれは、あなたが決めているのです。

実感ありますか?
ないですよね。

それはそうでしょう。
なぜなら無意識の日々の生活の中で、それらは決まっていきます。
あなたの実感の有無は関係なく、ある意味機械的に決まっていくのです。

このブログでも度々話しに出てくる“カルマの法則”、言い換えれば因果応報(いんがおうほう)というもの。
善因善果(ぜんいんぜんか)、悪因悪果(あくいんあっか)といわれるように、良い結果には良い原因があり、悪い結果には悪い原因がある。

我々の日常生活に当てはめて考えてみると、たとえば運が良いと感じる事が起こったとするなら、過去にその現象が起こるための原因となる種がどこかで撒かれているのです。

その種がどんな種だったのかを調べる術はありませんが、もしかしたら数年前に何の気なしに種を撒いたことがあったのかもしれない。
自分ではもう忘れていた、無意識でおこなっていたその行動の種が芽生え、成長し、何年もあとになって思いもよらない形で自分に幸運の実を落とす。
もちろんこれは悪いほうでも起こりえるわけですが、

“過去”に生み出した行動や言動や思考のすべてが、一つ残らず“未来”へと繋がっている。
今日のあなたに起こった事も、今の状態も、すべて1秒1秒が過去から流れ着いた、あなた自身が流した流木なのです。

そこを踏まえて、過去の自分や、今の自分が撒いている種が未来にどんな実をつける種なのかを考えてみましょう。

どうでしょう? 未来の自分が喜ぶような実がなる種を撒いていますか?

え?自信ないですか?

まあそれはそうでしょう。
そもそもどんな種が良い種なのかが解らないでしょうし。

でもそれは逆に考えると、もし良い種がわかるならそれを今から撒き続ければ、未来にそれが帰ってくるじゃない。

そう気付いたあなたはナイスです(笑)


未来に素晴らしい実をつける種とはどんな種なのか?
どういう行動や言動や思考を心がければいいのか?
それを説明しましょう。

じつはそれは、



あら?

いけない、火にかけてた夕食のトムヤムクンが沸騰してます!
ごめんなさい、続きはまた次回の『魂の智見』で



東京より
白石

運の良し悪しを決めているのは

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日頃から

自分は運が悪い
ラッキーとは無縁の星に生まれている
どうすれば運が良くなるんだろう?

このブログの読者の方の中にも、常にこんなことを考えている人も多いことでしょう。

はたして幸運とは何なのか?
運の悪い人はなぜ悪いのか?
そもそも“運”とは何なのだろうか?

もし運の善し悪しの仕組みを理解し、しかも自在にコントロールできたらどんなに素晴らしい人生を送れることでしょう。

でも周りを見渡してみると、この“運”というものはどうも偏っているように見えると思います。

良いことも悪いことも確率的には1/2で50%のはずなのに、幸運を呼び込む人は立て続けにラッキーなことが続くのに、なぜか不幸ばかり続く人もいますよね。

たしかに“運”は人を選びます。
幸運は幸運を呼び込む人のもとへ、不運は不運を呼び込む人のもとへ流れていきます。

なぜそのような偏りがでるのでしょうか?
そこを解明するには、まず幸運を呼び込むメカニズムは決して平等ではないということを理解する必要があります。


『今は運が悪くても、いつか溜まった運が一気に払い戻される日が来るはず』

『運はランダムに偶然が呼び込むものであって、いつかは自分の順番が回ってくるはず』


こう思っているのです。
運の悪い人ほど、、、


でも一生懸命に信じているところを申し訳ない・・・。
もしあなたがそういう考えでいたのなら、多分、あなたに幸運は訪れないでしょう・・・。

なぜなら“運”は溜まるものではないですし、整理券みたいに順番に配られるものでもないからです。


占いなどで健康運や金運や恋愛運や仕事運を占ってもらう人も多いと思いますが、星座や血液型などで一律なら、生きていれば皆平等に定期的に幸運が回ってくるはずです。

でも、占い好きの方、どうですか?
実際は違うと感じることも多いでしょう(笑)

去年は12年に1度の幸運年だったはずなのに、実際はアンラックなことばかりだったとか、
反対に悪いことしか言われなかったのに、なぜか良いことばかり起こったり・・

もちろんすべてだとは言いませんが、なかなか運の良し悪しを正確につかむことは難しいですし、ましてコントロールなど出来っこない。

そう思っていませんか?


では、あなたに訪れる幸運や不運は、いつ、誰が、どのように決めているのか?

神様が決めている?
いいえ、そうではないかもしれませんよ。
(信仰の否定をするものではありません。あくまで僕の考えです)

実は、運の良い悪いは、○○○が決めています。

○○○は24時間常にあなたを監視し、あなたの人生の舵を握り、あなたの運命を左右します。

さて、あなたにとって重要な○○○とは一体?


それは、じつは、



あれ?火をかけていたお茶が沸いたようです↓↓↓
じゃあ続きはまた次回の『魂の智見』で(笑)



バンコクより
白石

魂と心の違い

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今日は“魂”というものの存在を、もう一度より理解してもらうためのお話しです。

というのも、どうも頂くメールなどを読んでいると、魂の根本を理解できていない人が多いように思えたからです。

一番多い間違いは“魂”と“心”が同じものだと思っている人です。

確かに世の中の言葉の使い方として、例えば

「魂の叫び」というフレーズは良く聞きますし、
「心の叫び」というフレーズも聞きます。

この二つに対して抱くイメージにそれほど違和感を覚えることもなく、特に分け隔てなく同じようなものとして考え使っている人も多いことでしょう。

でも僕のブログの読者でしたら、そんなことではいけません(笑)
しっかりと魂の理解度を高めてください。


“魂”と“心”これは全く違うものです。

魂は生命の根幹となるエネルギー体の塊で、全ての動植物に一つずつ存在します。
生命が生命たるコアとなる部分であり、肉体や精神は魂を取り巻く一時的な付帯物に過ぎません。

自動車に例えるのなら、自動車を運転しているドライバーこそが魂です。
自動車自体は古くなったり、事故を起こしたり、乱暴な運転を繰り返せば、いずれ朽ち果てて廃車になります。
しかしドライバーは変わりません。また新たな車に乗り換えるだけです。

それが魂というものの存在です。

僕が常々、魂を汚さないように、硬くしないように、黒カルマを生み出さないように言い続けているのは、自動車(肉体)はドライバー(魂)の健康度合いによって、その寿命や安全性、性能に大きく影響するからです。

ドライバーが健康で健全なら、車は長く安全に走り続けることができます。
しかしドライバーが不健康化しだすと、運転は乱れ、消耗し、しいては事故を起こしてしまうこともあります。

そうならない為には日々の生活の見直しや、病気に対する検診や治療を行うことはまさに人間の実生活と変わりありません。
魂を汚さない、綺麗に保つ努力を怠るべきではないと言う理由はそこです。


対して“心”というものは、人間の脳内の思考を具現化したものに過ぎません。

これも同じく自動車の話しに例えるのなら、

方向性を決めるハンドルや、スピードを決めるアクセルペダル、止まるときのブレーキペダル。あるいは挙動を示すウインカーやブレーキランプ。
こういった自動車を最終的にコントロールする機能のひとつと例えると解りやすいかもしれません。

もちろんこれらは重要なものですが、心(ハンドルやアクセル)自体が明確な意思を持って肉体(車体)をコントロールしているわけではありません。
あくまでドライバーである魂の状態に大きく左右されるのです。

もしドライバーが荒れていれば、急発進、急ハンドル、急ブレーキ、無駄に運転が荒くなります。
人間の話しに戻せば、
魂が荒れた人は心も荒々しくなり、すぐに怒り、恨み妬み、嘘つきになるということです。

車窓に流れる景色を美しく感じる余裕があるドライブが出来ているかどうか?

魂が綺麗で健康ならおのずと心も体も、しいては人生そのものが綺麗に、そして楽しくなります。

どうでしょう?
“魂”と“心”の違いが理解できたでしょうか?

このブログの読者の皆さんは、どうか“魂”を大切にして下さい。



バンコクより
白石

smiling again