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善行と偽善の大きな違いとは?

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偽善と善行についてもう少し詳しく書いておきましょう。
なぜ偽善は善のカルマにならないのかを説明しておきます。


ただその前にひとつ言っておきます。
“偽善”は別に悪いことではありません。

そもそも偽善という言葉があまり良くないのかもしれません。
偽善者というと悪いイメージがありますが、偽善者の行為によって助けられる人や喜ぶ人がいればそれでいいではないかという考えもあります。

与えるものと与えられるもの、特に両者に不具合がなければ第三者から批判される筋合いではないのはごもっともな話であって、そもそも世の中は偽善で成り立っているという一面もあることでしょう。

僕も別に否定はしません。


しかしカルマの話しでは“偽善”はどこまでいっても“善”ではないので、そこには明確な区別が必要なのです。


ではどう違うのかを解りやすく解説するならば、
“偽善”は『奉仕』ではなく『取引』だと考えるといいでしょう。

『取引』は見返りを求めた行為ですから、ある意味、商売などと変わりません。

例えば大々的にアピールする寄付行為などは、まさに何らかの見返りを求めています。
それが「好感度アップ」だったり「ビジネス的な利益」だったりします。
何かを与えて、何かを対価として得る行為。
商取引としてみれば悪いことではないんですが、決して善行ではないのです。

対して“善行”は何も求めずに与えるだけの行為です。
単に困っている人を助けたいという想い。非常にシンプルなものです。

カルマ論で言えば、
善行はリンゴの種を蒔く行為、偽善はリンゴを買う行為。
未来に繋がるのは善行のみなのです。

もし人が飲まず食わずで生きられるのなら、善行のみの人生を歩みたいというのは理想論かもしれません。
しかし、なかなかそうはいかないのが世の常です。

ですから世知辛い世の中でも、機会があれば本当の善行を積みたいという本能が我々の魂にはあります。


どうでしょうか?
善行と偽善の違いがなんとなく理解できたでしょうか?


東京より
白石


追伸:
今日の写真は用事があって出掛けた折に撮影しました。
六本木ヒルズのイルミネーションです。とても綺麗でした(笑)

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ぽち 2013年01月12日(土)00時45分 編集・削除

白石先生こんばんは
いつもありがとうございます

何も求めず与えるだけ、助けたいというシンプルな気持ち!

先生の言葉は本当にわかりやすくて凄いです!
善行と偽善の違い、ストンと心に落ちてきました

先生のこのブログもまさに
困っている人を助けたいというシンプルな気持ち
ですね。
ありがとうございます!

種を蒔く行為を増やして
善のカルマを増やして行きます。

イルミネーションの写真、とても綺麗ですね〜素敵!

さい 2013年01月12日(土)02時24分 編集・削除

取引きの偽善なら沢山知っています。

好きな人の気を引くためのプレゼントとか、
義理のお祝い、お悔やみとか、
見栄や世間体で人に良くするとか、
子育てにも取引きがまじっていたりして、、、。
 
自分の労力がスルーされてムカッときたり、
「あんなに良くしてあげたのに」と言われたりして、
善意や好意が動機だったはずなのに、後味が悪いものって、取引が上手くいかなかったって事だったんですね。
私は、親切だった人が急に変わったりするのを見て、ちょっと人間不信気味だったのですが「取引き」だったんだ。って考えると分かりやすいですね。

純粋な善行って何だろう?
そんなの、普通に生きてる中で、あるのかな?
というのが長年疑問だったのですが、
「困っている人を助けたい」「なんとかしてあげたい」
という気持ちなら、誰でもあるような気がします。
慈悲、でしょうか?
この気持ちには「助けてあげた」という偽善を滲ませないようにし
なくちゃ。と思います。

みかん 2013年01月12日(土)10時00分 編集・削除

白石先生、ありがとうございます。私の一番の願いは「本当の善行ができる人」になる事です。でも、頭ではわかっているのですが見返りを期待したり嫉妬したり。そんな理想と現実、自分自身のあまりの違いに自己嫌悪し心がドロドロしてます。そうなりたいと言う気持ちがあれば少しずつでも近づく事ができますか?

にゃ~ 2013年01月12日(土)14時00分 編集・削除

こんにちは!

人間はほとんどが偽善と多数人格の演技の人生だという現ととらえていました。それはいけないということではなくそうすることによって体をもって生きるにはうまく社会になじむという理由です。

なので偽善のことは前からだいぶ観察していました。
とっても親切でいい人もお礼というエネルギーを求めているんだな。って。でもお礼もいわなくちゃ離れていくのも当然。
その人がいい人でありたいという努力はすばらしいと思います。

善い行いというのはなかなかわかりませんでした。
いつもこれは偽善なのかなと思っていて。
おそらく、相手がどう思おうとも、力を貸してあげたい!という衝動で動いたときなのかもしれません。
相手がどう思おうとそうできるときとそうでないときがあります。
これをしてあげたいけど相手は迷惑じゃないだろうか、、、と考えてしまうときです。
お年よりやけが人に席を譲りたくてももしかしてこの人はトレーニングを兼ねて立っているのかも、とかこの人は目が不自由だけど自分の力で方向をさぐりたいのかも、、などです。
その衝動や善行と思われることは実際どうなのか、ということです。なので善悪の判定も難しいと思っています。
わかりやすくいうと、子供に手を貸してあげたほうがいいのか、やらせたほうがいいのか迷うようなときもそうかもしれません。

結果、私は自分のやりたいパッションで行動するしかないと思っています。相手の心までわからないんで、、。^^

人間関係で人が離れていくというのはこの取引のバランスなんでしょうね。
与えたいのに提供できなくなってしまい、離れてしまうのはちょっとさみしいですがあきらめが肝心。
もらうものだけもらってさっさと去る人もいます。
去るのはかまわないのですが、お礼もいらないのですが、それとは別にこちらもほしいものがあったりするとちょっとさみしい。
(これはこうしたから、これをしてほしい、というのとは別です。)

世の中、偽善のバランスだけでもうまくいってほしいと思います。
それ以下の方もたっくさんおられると思うので。
詐欺師などの悪党はまだしも、自分は心が清らかであると思っていて、もらうものだけもらって去るまったく自覚のない人のほうがちょっとずるさを感じます。
こんな私ちょっと冷やかでしょうか。

白石さんの思いと大きくちがっていたらすみません。
わたしの勝手な思いですが、、。

自分が参詣したり、瞑想するときは自分のことは先にちょっと考えてから、あとはあらゆるものがやすらかであるように時間をかけて願います。でも、これってすべてはひとつであるという考えからすると、自分に返ってくることなので偽善なのかな?^^
あー、わまってきちゃいました。(笑)

いろいろと深く考えさせていただける投稿、ありがとうございます。またお知恵を楽しみにしています。

にゃ~ 2013年01月12日(土)18時30分 編集・削除

すみません、少し補足させてください。
偽善と演技で人生を終わらせるのがよいというのではなくて、人に攻撃されないように安泰にしていくためにそうしていくことで、自分の本来がわからなくなり、なにをしたかったのか、自分はなんなのか忘れてしまう要因でもあるのかと思っています。

子供のときにはまだあった自分や知っていたことを年をとると忘れていく、あるいは無意識に封印していくのと引き換えのような気がします。

うーたん 2013年01月13日(日)17時26分 編集・削除

こんにちは!

何だかスッキリしました。
こんな事いってはなんですが、
偽善行為を受け入れようと

生きていく為(人と円滑に交流する為にも)
必要な事なんだと思いました。(今更気づく^^;)

この上で善い行いをしていけば良いのかなと。

でも、この間、電車に乗っていたら
左手に元気な老婦人、右手にお腹の大きな妊婦さん…
どちらに席を譲ったら良いか分からないまま目的地に到着。
どうしようも出来ませんでした…(TT)

smiling again