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“瞑想”知らぬは一生の損 part2

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こんにちは、白石です。

さて、今回の『魂の智見』は、“瞑想”知らぬは一生の損 part2です。
前回のエントリからすこし時間が経ってしまっていますので、ぜひpart1を読み直してから戻ってきてもらえればと思います。

“瞑想”知らぬは一生の損 part1

前回は瞑想が人にとって良いものであるというザクッとしたお話ししか出来ませんでしたが、今回からより具体的なことについてお伝えしていきたいと思います。


さて、まずこの疑問から。

そもそも、いったい瞑想とは何なのでしょうか?


一般の雑誌・ネットなどのメディアでも最近は“瞑想”が紹介されることが多くなってきました。
しかしその内容を見てみると、大体どこも同じなんですが、瞑想することによって得られるメリットを中心とした紹介の仕方になっています。

心が落ち着き、集中力が増し、ストレスが緩和され、健康な肉体になる、などなど。
こういった精神的・身体的なメリットが得られる瞑想はすごい、といった感じですね。

こういう紹介が多いので、どうしても皆さんは、たとえば筋肉や関節を伸ばすことで身体の調子を整える“ストレッチ”の同列ような、一種の“健康法”として瞑想をとらえている方が多いのではないかと思います。

もちろん、ひとつの健康法として瞑想をとらえることは、取っ掛かりとしては悪いことではありません。

しかし、そこはこのSSSの読者の皆さんですからね(笑)
ここはもうひとつ奥にある瞑想の本質を理解したうえでスタートしてほしいところです。
そうすれば、より瞑想のすばらしさや効果を深く感じとることができ、そして長く続けることができるはずです。


瞑想は健康法ではありません。
瞑想をすることで得られる肉体的・精神的メリットは、単なるオマケのようなものであって、決して目的ではないのです。

では瞑想をする目的とはいったい何なのか?

それを理解するためには“瞑想”をこうとらえればいいでしょう。


瞑想は“魂の睡眠”である。


ふんふん、なに?余計わからなくなった?(笑)

いやSSSを熱心にお読みいただいている読者の方でしたら、僕の言うことは何となくでも理解できるはずです。


魂の睡眠


魂は肉体という“上物(うわもの)”を一時的に支配しているだけのオーナーだということは、以前からお伝えしてきたことです。(この辺を理解できていない人はこのあたりのエントリを読まれるといいでしょう。)
魂と心の違い

じつは魂はとっても働き者なのです。

魂にとっての仕事、それは自分が担当した肉体を長く生かすことですから、基本的には不眠不休で24時間365日働き続けています。
肉体が朽ちて動かなくなるまで、つまり死ぬまで働き続けているのです。

肉体は働き続ければ、だんだんと疲れが溜まり、正常な状態が保てなくなってきますよね。
でもこれは、魂もしかりだということなのです。魂だって疲れが溜まるのです。


肉体は疲れが溜まると眠りにつくことで回復に努めますが、魂の場合は基本的に不眠不休で活動しています。

たとえ肉体が睡眠中であっても、人間は夢を見て、呼吸をして、血液を体内に循環して体温を保ち、内臓を動かして、寝返りを打って、完全にその活動を止めることはありません。

これらの生命の維持は、その根源に魂の働きがあるということなのです。
魂がその活動をやめるときは、つまり人間の寿命を意味します。

そう、あなたの心臓は勝手に動いているわけでは無いということ。

今ドクドクと波打つように動いていている心臓は、魂があなたの肉体に宿っていて、今この瞬間もしっかりと働いてくれているという証なのです。

どうですか?
すこしは自分の魂を大事にしようと思いましたか?


多くの人は肉体の健康ばかり心配し、気をつかい、お金をつかい、時間をつかって、何とか健康を維持しようと必死になります。

やれ「これは身体によい食物だ!習慣だ!健康器具だ!」といった具合です。

ほんとに僕に言わせると愚の骨頂なのです。


人間の健康を保つ上で、魂ほど いの一番にケアしなければならない存在はありません。

魂が健康であって、はじめて肉体は正常に機能しようと活動しますが、一般の方で魂の健康を気にする人はほとんどいないのが実情です。
魂をおろそかにしてしまうことが、すべての元凶になっている事実を知らないのです。



疲れた魂を、すこしの間、休ませてあげることができる“技”

それこそが“THE 瞑想”なのです。
思わずTHEをつけてしまうくらい、瞑想は魂にとってのご褒美になります(笑)


よく言われる瞑想によって得られるメリット、精神集中や疲労回復やストレス解消やら、、、
こんなものは実は小さい小さいことであって、魂が休息を得られたことによる、ほんのささいな好結果のひとつに過ぎません。

瞑想の本質はそこではなく、魂が一息つけることでその活力がグンと増すこと、パフォーマンスが高く維持できること。
それこそが重要なのです。

魂のパフォーマンスが上がれば、肉体の維持力だけでなく、魂自体の防御力にも違いが出てきます。
黒カルマに汚染されることに対して、抵抗力も上がります。

それは人生の正しい道を歩むために必要な“決断力”や“勘”の強弱にも係わっていきます。


アップル創業者のスティーブ・ジョブズやマイクロソフトのビル・ゲイツ、マドンナやイチローなどの成功者と呼ばれる人たちが、瞑想に取り組んでいるのも、単に言われているメリット以上のものを得られていることに気付いているからなのです。


などと瞑想の本質についてつらつらと書いていると、今回もやっぱり文章が長くなってしまいました・・・。

「なんだ、具体的な瞑想方法を教えてくれるんじゃなかったの?」

こんな声も聞こえてきそうですが、慌ててはいけません。

まずは瞑想がどれほど人間にとって有効なものなのか?
これを理解していないと単なるちょっと面倒な健康法くらいのレベルでしか瞑想を受け止めることができないのです。
正直、それでは長く続かないでしょう。

魂は文句も言わずに、毎日働いてくれていますが、ある日いきなり壊れてしまうパソコンのように、知らず知らずのうちにバグが溜まっていたりするのです。

瞑想はメリットを得るためのものではなく、デメリットを無くすためのもの。
そういう思いではじめることで、結果としてメリットも生まれてくるのです。

次回の魂の智見では具体的な瞑想方法を“必ず”やります(笑)



東京より
白石

御嶽山の噴火に思ふ

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こんにちは、白石です。

ここのところ忙しさもあり、時間の経過がやたらと速く感じます。
この間まで夏だったのに、あっという間に秋も深まり、もう寒さをも覚える季節になって来ました。
北海道や東北の一部ではもう雪が降り始めているところもあるようです。

そういえば先日、車で東名を移動していたんですが、御殿場あたりで、正面にうっすらと雪化粧した、とても美しい別嬪さんな富士山を見ることが出来ました(笑)
秋晴れの中、なんとも得した気分になりましたね。富士山はほんとうに絵になる山です。


ただ山といえば残念だったのは、ちょうど一ヶ月前になりますが、御嶽山での噴火によって大災害が起こりました。

僕もこのブログでは火山の持つ霊的なパワーについて度々取り上げてきていますので、今回の噴火については思い期するものがありました。

そこで今回は予定ではありませんでしたが、「魂のつぶやき」として気になっていることを書いておこうと思います。


まずあの噴火が起こったとき、とっても驚きました。


というのも、実は今年の8月末ですから噴火の約一ヶ月前になりますが、僕は御嶽山に行っているんです。

とはいってもこの時の目的は山登りではなく、今回、救助隊が本部を置いていた麓の大滝村に流れ込んでいる川でのイワナ釣りでした。

あのあたりの川にはヤマトイワナという日本古来の原種のイワナが生息しているんです。

このイワナはとても希少な種類の魚で、御嶽山のあたり、長野・岐阜の一部にしか生息していない魚なんですね。
特徴としては普通のイワナのように白い斑点がなくて、黒いヌメっとした魚体なんですが、それがなんとも神々しい紋様をしていて、バンコクに移住する前は2年に一度くらいの頻度でよくあのあたりの川には釣りに行っていました。

また大好きな登山も、あのあたりの山は木曽駒ケ岳や乗鞍など軒並み登っています。


でも、じつは御嶽山は過去に一度も登ったことがないんです。


日本百名山のひとつである御嶽山なんですが、なぜか僕は敬遠してきました。
読者の皆さんは、僕は火山を積極的に登っているのになぜ?とお思いになるかもしれません。


その理由なんですが、
あの山はその昔から富士山に並ぶくらいに山岳信仰のメッカ的な霊峰として知られた山で、白装束で祈祷のために登山する人も毎年多くいます。
ただ同じ霊峰でも富士山とはまた違う厳しさと言うか、重々しさを感じる山なんです。

それは登山的な厳しさというわけではありません。むしろあの山は比較的に難易度の低い、登りやすい山とされています。

僕がいう厳しさ、重々しさとは霊的なもの。

行ったことのある人なら何となく感じた人もいると思いますが、あの山は独特の人を寄せ付けないような、厳格な雰囲気をもっている山なんですよね。

僕が釣りに行った当日も全国的に高気圧がすっぽり覆っていて猛暑日だったんですが、なぜか御嶽にだけ雲がかかっていて雨が降っていたのには驚きました。
スマホで雨雲レーダーを見てみても、本当に見事なくらいに日本列島のなかで唯一、一点 御嶽山にだけ雨雲がかかっているんです。
わずか数キロ離れればピーカン照りなんですが、、これには「さすが霊山だなあ」と思いましたね。

まるで意味もなく入山しようとする人を拒むような、なんというか結界のようなものが感じられる山なんです。


また今回の噴火では本当に残念なことに多くの犠牲者が出てしまいましたが、
僕には噴火が起こったということよりも「なぜ、あのタイミングで?」というところが気になって仕方がありません。


御嶽山は本州では代表的な活火山ですから、いままでも小規模な水蒸気噴火は数年に1回くらいの割合で起こっています。

一口に噴火といっても、地中の地下水が沸騰することで圧力が高まり地上に噴出する水蒸気爆発は、ハワイ島などで起こっているマグマ噴火に比べると比較的に被害の少ない、規模の小さい噴火レベルに分類されるんです。

今回の御嶽の噴火も水蒸気爆発でしたが、いくつかの悪条件が重なったことで大災害になってしまいました。


まずはなにしろ噴火の起こった9月27日土曜日というのが最悪的によくなかったのです。

登山をする人なら解るんですが、9月は1年で最高の登山月です。
真夏の暑さもやわらぎ涼しく快適に登山が出来ます。しかしこれが10月になると標高の高い山は一気に寒くなってきてしまうのです。雪が降ってしまうような山もあります。

また土曜日というのも最悪の曜日でした。
普通、会社や学校は土日が休みですから、登山をする人は土曜日に登り、日曜日は疲労回復の休養日にあてる人が圧倒的に多いのです。

さらに噴火が起こった時間帯、午前11時52分。

ご来光を目的としなければ、通常は午前を登りにあて、山頂でお昼をとって、午後に下るというスケジューリングを組むのが通常です。
つまり一日のうちで一番山頂に人が集まる時間帯、それがお昼の12時前後なんです。

また水蒸気爆発は必ずしも山頂火口で起こるとは限らないのですが、今回の噴火が山頂での爆発だったことや、秋の好天に恵まれた登山日和だったこと、もちろん比較的に噴火を繰り返している活火山にもかかわらず防護シェルターなどが設置されていなかった人的な問題も被害を拡大させてしまった原因でしょう。

しかし、もし噴火が起こるタイミングがもう少し遅れて、雪山になった後や、せめて時間帯が真夜中などでしたら、こんなに大きな被害が出ることはなかったでしょう。


御嶽山というと、1984年に起こった長野県西部地震での大規模な山崩れによって土石流が起こり、御嶽を水源とする濁川沿いにあった温泉施設などが一瞬で丸呑みになってしまった通称「御嶽くずれ」による悲しい大災害が記憶にある方も多いでしょう。

今でもふもとの大滝村から御嶽山を見ると、崩壊でえぐり取られた山肌や、土石流で広く削られて未だ整備されていないままの濁川河川も確認できます。


御嶽は名山であることに違いはありませんが、どうも僕は足が伸びないまま現在に至りました。
おそらく今後も登ることはない山のような気がしています。

その感覚は口に現すことは難しく、漠然としているのですが、なんというか、人が立ち入らないほうがよい場所といいますか、許されていない場所のような気がずっとしていたのだと思います。


そして今回の噴火で改めて感じたのは、

「やはり、この山はなんらかの明確な意思をもって生きている」ということです。

その意思とは何なのかは解りません。
解りませんが、なんとなく地球の内なる怒りというか
「この地球は人間を中心としたものではないぞ、人間どもよ勘違いするなよ」という警告を発しているように感じるのは僕の勝手な思い込みでしょうか?

なんだかそう思ってしまうような、近づけない怖さというものを ずっとこの山には感じていた気がします。


今回の噴火によって多くの尊い命が奪われてしまったことは大変残念なことですし、残された遺族の方の悲しみや悔しさを思うと慰めの言葉もみつけることができません。

御霊が迷うことなき涅槃に導かれるよう 心よりお祈りしたいと思います。



白石

あなたが知らないカルマの法則―魂のリプライ―

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こんにちは、白石です。

今日のブログテーマは『魂のリプライ』
読者の方からいただいた相談や質問に白石が答えるコーナーです。

さて今回はこの質問にお答えしたいと思います。

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白石先生、はじめまして。

いつもSSSの更新をたのしみしています。
白石先生の魂やカルマに関するお話しはもちろんですが、人生の生き方に関する考え方やアドバイスなども考えさせられることも多く、とても勉強になっています。

そのような中、先生のブログを読んでいて、カルマについてふと疑問がわいてきたことがあり、どうしても質問してみたいと思い、おもいきってメールを送ってみました。

私の疑問はカルマの法則についてです。

カルマの法則につては白石先生もSSSでご説明なさっていますが、自分の行いがいずれ自分のところに戻ってくるという法則だと理解しています。

そこで疑問なんですが、カルマとなる行動とは、どこまでを指すものなのでしょうか?

他人が関係する行動(他人に対して何かをするなど、他人が認知する行動)と、自分だけしか知らない行動(密室の中で行うなど、他人が認知しない行動)では違いがありますか?

カルマの法則を知ってから、自分の行動や言葉が未来に良いことなのか悪いことなのかを、とても気にするようになりました。
それは過去に自分がしたことが戻ってきたと思い当たるような出来事がよく起こっているからです。

より良い未来にするために、ぜひご教示いただけたら幸いです。

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以上、関東にお住まいの40代の女性の方からの質問です。

いただいたメールには実際に起こった過去のカルマと思わしき最近の出来事などが詳しく書かれていましたが、今回は文面の都合上、省かせてもらい一部文面を読みやすく要約しています。


さて、今回の質問はSSSの内容にマッチしたよい質問ですよね。

『カルマの法則』については、今までもたびたび取り上げて来ましたが、こうした細かな部分というのは確かに説明からもれていたことかもしれません。

自分から発信する言葉や行動のシチュエーションによって、未来的なカルマのリターンに違いはあるのか、という疑問。

ではお答えしていきたいと思います。


例えば負のカルマ“怒り”で一例をあげてみましょう。

なにか他人との絡みで自分の意にそぐわないことが起こったとします。
このときに湧き上がった怒りの気持ち、これをどういうシチュエーションで消化すれば未来的なカルマの軽減につながるのでしょうか?

① 対象者に対して怒りの言葉を頭のなかで思い浮かべること。
② 怒りの言葉を対象者本人に直接告げること。
③ 怒りの言葉を対象者以外の他人に告げること。

この3つはいずれも“怒り”という感情を、自分の中でどうにか解消するために人が取りがちな行動パターンです。

①は湧き上がった“怒り”をなんとか、自分の脳内で消化しようとするパターン
②は“怒り”を対象者にむけて直接ぶつけることで溜飲を下げようとするパターン
③は対象者以外の他人に“怒り”をぶつける、もしくは吐き出すことでスッキリしようとするパターン

③に関しては、当てつけ的に他人に怒りをぶつけてしまうことや、他人の同意をもとめて“怒り”を吐き出す(悪口や告げ口なども含む)ということを意味します。

こうした3つのケースは実社会ではよくあることですよね。
自分の意図しないことに対してマイナスの感情を覚え、その感情をいかに抑制するのか?

皆さんもこの3つの処理方法のいずれかを選ぶことが多いのではないでしょうか。
私は①だなという人もいるでしょうし、②や③を選ぶ人もいるでしょう。また、その時々だという人も。

ではこの3つのパターンですが、どういう順番で未来的な負のカルマが大きくなるか解りますか?
どれがもっとも良くない“怒り”の処理方法なのでしょうか?

さっそく答えをいいましょう。

未来的に大きな負のカルマが戻ってくる可能性が高い順に、
③>②>① となります。

どうでしょうか?
私は③のパターンが多いと考えた方はいますか?
だとしたらあなたはカルマ的には要注意です。

この③>②>①という順番をみて、すこし意外だと思った人もいたかもしれません。
なんとなく②の直接本人に怒りをぶつけるほうが、喧嘩になりそうですし遺恨が大きくなるような気もします。

しかし実はカルマ的には必ずしもそんなことはなく、直接怒りをぶつけることで事案が解決し“怒り”の元となっていたわだかまりが解消することもよくあります。
もちろんそうはならないでさらに遺恨が悪化するケースもありますが、確率的にいうと②よりも③のほうが未来に放つマイナスな業は大きくなりがちなのです。

こういう順番になる理由を説明します。

①に関しては“怒り”という『負のタネ』を自分ひとりで処理しています。
ところが②になると、自分以外に対象者が絡んできますから『負のタネ』が単純に2倍になります。
では③はというと、自分と他人ですからこれも『負のタネ』は2倍ですが、たとえば他人が複数人になる場合も多いでしょう。

実はカルマには他人を巻き込むことで未来的に倍加して戻ってくるという性質があるのです。


「ちょっと聞いてよ、すごいムカついたんだけど・・・」

こういう話しを友人グループに言いまわることで、同意を得ようとする人ってよくいます。
また中にはラインなどのSNSや掲示板などインターネットを使って、不特定多数の人に向けて“怒り”を吐き出す人もいます。

これなど僕に言わせると、まさに自殺行為ともいえます。

複数人による“怒り”がトグロを巻いてしまうと誰にも収拾がつかなくなり、自分が放った『負のタネ』は多くの他人を巻き込み数百倍、数万倍となり、未来へ放たれていきます。

ラインや掲示板で他人の批判や悪口を書いている人は、まさか将来的に自分がその何倍もの負を受けることになるとは思いもしないことでしょう。

SSSの読者の皆さんは決してネットで他人の批判や悪口を書いたりしないで下さいね。
これに関してはこれからもたびたび注意喚起していきますが、批判や悪口をネットに書き込むことが癖になってしまっている人は意外に多いですから注意するようにして下さい。

インターネットは正しく使えば本当にすばらしいものだと思いますが、あまりにも簡単に自分の中だけにあった『タネ』を世界中に向けて発信できてしまう怖さがあります。

一昔前でしたら、自分の考えや言葉を世に出すということは大変な労力や手順を要するものでした。
しかし今はそれこそベッドに横になり、お菓子を食べながら、片手で瞬間的に誰もが言葉を発信できてしまいます。

『言霊(ことだま)』という言葉もあるように、言葉には魂が宿っています。

あなたが何気なく飛ばした言葉の魂は、今まで会ったことのない人、会うべきではない人のもとにまで届きます。

その人が必ずしもあなたの言葉に同意するとは限りません。
あなたの思惑とはズレがあり、逆に反感を買うこともあるでしょう。

よくネットで言い争いしている人たちを目にすると思いますが、皆さんは普段の生活の中でそんなに喧嘩している人たちを目にすることってないと思います。
ところがネットの中では頻繁に喧嘩や暴言を目にします。

よく車の運転でハンドルを握ると人が変わったように舌打ちしながら乱暴運転する人がいますが、ネットの世界もしかり、目に見えない相手に対して、人はどこまでも凶暴化していきます。

気付かずにインターネットで負のカルマを吐き続け、人生を台無しにしている人も多いのです。

ここはインターネットの本当に怖いところです。
皆さんは注意してほしいと思います。

話しがすこしそれてしまいましたが、
でもこれは逆に『正のカルマ』、善い業でもおなじことが言えるのです。

『善いタネ』はむしろ他人を巻き込むことで、より善いかたちで未来に戻ってきます。

最近、世界的に流行った頭から氷水をかぶる“アイスバケツチャレンジ”などはその一例だったかもしれませんね。
あの行為に対して偽善的な見解や批判的な意見をいう人も多かったですが、結果としてALS(筋萎縮性側索硬化症)に苦しんでいる人がいるという世界的な規模での認知や、寄付金も予想以上に集まったという結果は大成功だったといえるでしょう。
ネットでも発信する趣旨内容によっては、その機能を最大限に発揮できる好例であったといえます。


ここまでまとめると、
未来的なカルマを考えた行動としては、『悪いタネ』は出来るだけ自分ひとりで処理したほうが無難だということ。
理不尽だと感じることを飲み込むことはストレスですし、なかなか処理できないかもしれない。
しかしだからといって自分の『負のタネ』に他人を巻き込むと、未来的にはより大きな負になって自分に戻ってきてしまう可能性があります。

しかし『善いタネ』はむしろ積極的に他人を巻き込んだほうがいい。
それが本当に善いことであるなら、未来の自分だけでなく拡げた他人をも幸せにできるのです。

よい質問でした。



東京より
白石

なぜ人は働かないといけないのか?

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こんにちは、白石です。

バリ・アグン山への巡礼も終わり、今は毎日をいそがしく過ごしています。

そんな折、ある相談者の方から、仕事に張りあいが持てないという相談を受けました。
普段から仕事に関する相談は数多く受けるんですが、大きく分けると3つの相談が大多数をしめます。

現状の仕事や職場に満足できないという悩み
新しい仕事や職場への転職や転勤に関する悩み
仕事がない、働く意欲がわかないという悩み

この3つが仕事についてのもっとも多い悩みです。

そこで今回の『人生の智慧』は、“はたらく”ということについて考えてみたいと思います。


さて、読者のみなさんはどんな仕事をしているのでしょうか?


働いている人、働いていない人、いるかと思いますが、そもそも“はたらく”とは人間にとってどういうことなのか考えたことはありますか?

生きていくために、食べるために必要なものという位置付けは理解できても、それ以外の意味を考えたことはあるでしょうか?

「食べていくこと以外に働くことの意味などあるの?」と考える人も多いかもしれません。

たとえば宝くじで大金が手に入ったら、仕事を辞めてしまってのんびりと残りの人生を過ごしたい。
こういう夢を追って、宝くじを買い続けている人も多いことでしょう。

もちろん偶然に大金を手にしたりあるいはすでに持っている人が、仕事をせずに毎日を過ごしたいと考え、それを実践することができたとしても、人は仕事をすべて手放すべきではないと僕は考えます。

その理由ですが、
『人間にとって働くということは、呼吸とおなじように大切な生命活動のひとつである』という仮説を僕はもっているのです。

どういうことか説明します。

まず人間が生きていくために必要な最低限の生命行動を考えてみます。
それは呼吸をすること、食べる(水分補給を含む)こと、排泄すること、寝ることの4つです。

もちろん細かいことを言えば、体温管理などという問題もありますが、
極論をいえば、人は「息して」「寝て」「食って」「出す」ことができていれば、生き続けることは出来るはずです。

もしかしたらすでに限りなくこの4つの行動に近い活動のみで、毎日を過ごしてしまっている人もいるかもしれませんね(笑)

しかしこういった最低限の生命活動だけで毎日を過ごしていると、人間はどうなってしまうのでしょうか?


その昔、ローマ帝国の時代にフリードリヒ2世という皇帝がいました。

この方は少々変わった人で、なにか疑問が沸くと、その疑問を解決すべく実験をおこなう癖がある人だったようです。
そしてある日、こんな疑問を感じたのです。

『言葉を教わらないで育った子供は、いったいどんな言葉を話すのか?』

こういう疑問を思いつくのもすごいですが、これを人体実験で解明しようとしてしまうのが、この時代の皇帝の怖いところです(笑)

さっそく部下に50人もの赤ん坊を集めさせて、大部屋に隔離し、その子たちには一切の言葉を聞かせないまま育てるのです。

ミルクやオムツ変えやお風呂などの面倒は充分にします。
ただし接触するときは、赤ちゃんの目を見ない、笑いかけない、話しかけない、必要以上に触らないというルールを看護士には義務付けました。

このように一切の愛情や刺激や情報を与えないで育てていた赤ちゃんたち。
いったいどうなったと思いますか?


全員、あっという間に死んでしまったそうです。

※まあこの実験自体が本当に行われたのかという疑問もあるようですが、歴史上、過去には同じような実験をした人たちが結構いたという記述も残っているようで、その場合もやはり同じような結果になっていることからも、少なからずこの実験結果には信憑性があります。


そしてこの実験結果から解ることですが

人間は、単に生命維持だけの生活に偏ってしまうと、逆に生命エネルギーがやせ細っていくという事実です。
つまり人には生きていくための生命活動以外に、なんらかのプラスの刺激がすごく大切なのです。

その刺激とは仕事だったり、趣味だったり、ボランティアだったりと様々あるでしょうが、取り分け“はたらく”ということは、毎日にあたらしい刺激を与えてくれる大きな役割りをもったルーティンなのです。

また人に限らず、生命にとって“はたらく”ことは、課せられた生命活動の一つといっていいでしょう。

餌をもとめて歩き続ける蟻んこだって働いていますし、植物だって根を張り、太陽の光を求めて上へ上へと葉を広げ、枝を伸ばします。

もちろん動植物たちにとっての“はたらく”は食べていくこと、生命維持の為の仕事です。
しかし人間にとって“はたらく”という行動は、単に生きるという目的以外にも、生きがいや生命力や知恵の向上というプラスアルファを与えてくれる、活動に幅を与えてくれるものという一面もあるのです。

そしてその一面こそが、人間の人間たる所以とも言えますし、逆にその一面がない人生を歩むということは、刺激がなくて死んでしまった赤ん坊のように、生命エネルギーを失っていってしまうことに繋がります。

朝早くおきて庭の手入れをしたり、玄関前を掃除したり、孫の世話をするお年よりも働いています。
子どものお弁当を作り、ご主人を会社に送り出し、家の掃除や洗濯をする専業主婦も働いているのです。

かならずしも『働くこと』イコール『お金を稼ぐ』ということではないのです。
働くということは、言うなれば『毎日の景色を変える』ということなのです。

新しい人や環境と出会い、視点が変わる、景色が変わることで、新たな展開がひらけていきます。
1歩すすめば視点は変わり、未来も変わります。

人の生命エネルギーを細めていく一番よくない原因は、視点の変化がなくなってしまうこと、立ち止まってしまうことでしょう。

もしあなたが病気で寝込み、天井しか見れない立場になったとしても、活動を止めてはいけません。
未来にむけて一歩でも進むために、今出来ることを考え、実践する毎日でなければいけないのです。


また昨今、仕事ができる体力と時間をたらふく持っているけれど、精神的に弱さがあって仕事をしていない“ニート”と呼ばれる人たちが増えているようです。
もちろん中には病気であったり、小さな子供がいて働くに働けないという環境の人もいるでしょう。
しかしそういう環境外でありながら、なかなか新しい一歩が踏み出せずにいる方に、最後にお伝えしておこうと思います。


三十代後半、四十代、五十代になった自分を雇ってくれる会社があるはずない。
新しい職場で溶け込む自信がない。
自分のやりたい仕事がいつまでたっても見つからない。
自分はうつ病だから、仕事を続けていくことが出来ない。


自分が働けない理由に、このようなマイナスな理由を言い訳にしてしまっている自分の存在に気付いているのなら、あなたにはまだ仕事で活躍するチャンスが残されています。
そして働かない自分を否定せずに、肯定化している自分がいるのなら、はやくそいつとは手を切ったほうがいい。

あなたが働けない本当の理由は、あなた自身が作りだしている“臆病な自分”というもう一人の自分からの説得です。
本当はあなたは今日からでも働くことが出来るはずなんです。でも臆病なもう一人の自分があなたにいろいろと言ってくるのです。

「お前が求められているような職場なんてあるわけないぞ」
「お前に今さら何ができるんだ?」
「お前よりもうんと若いやつに頭下げて仕事を習うのか?」


こういう臆病な自分の言葉に言いくるめられてしまうと、どんどん時間だけが流れていきます。


ぶっちゃけ仕事なんて何でもいいのです。
働いてみてどうしても嫌ならチェンジして構わない、転職する権利はだれにでもあります。

自分にあった仕事、満足感の高い仕事、条件の良い仕事。
もちろん見つけることが出来ればいいですが、実際はなんらかのマイナスな要因が目にとまって、すぐに他の仕事を探してしまうの繰り返し。いつまでたっても仕事は決まらない、そのうちに働く意欲すら失っていく。

そういう道を歩まないためには、とにかく“間”をあけないことが重要です。
何らかの理由で仕事を辞めたとしても、そこで一息つかないこと、間を空けずに次の仕事に就くことです。


仕事は最低限稼げればよいと割り切ってしまえば、いくらでもあるはずで、とにかく現状から1歩進むことで見えてくる景色の変化、これが重要なのです。

景色が変われば行動パターンも変わり、考え方も変わり、出会う環境も変わっていく。
それはつまり未来が変わっていくということです。
目に見える景色が変化していく中で、本当に自分がやりたいものや、やりたかったものに出会える確率は上がっていきます。
立ち止まっていても景色は変わりません。思い描いているだけでは駄目なのです。

今まで未経験の仕事であろうと、力仕事であろうと、夜間勤務であろうといいんです。
ニートだという人はとにかく一歩進むことで景色を変えることが先決です、それによって目標が遠のくことはありません、むしろ近づいてきます。


“はたらく”ことは人生を華やかにするための色付け作業であって、人間は色のない人生を歩めない唯一の動物でもあるのです。



東京より
白石

バリ島アグン山にはやはり神が住んでいる

白石です。

今、バリのウブドというところに来ています。

ここ数年続けている半年に一度の行(パワーチャージ)、アジアの霊峰マウントアグンに登頂するためにここ数日滞在しています。

ここのところバリはあまり天気がよろしくない日々が続いていて、雨の日が多かったのですが、タイミングをみてついにアタックしてきました。

もともとウブドは山の中なので涼しい地域ですが、太陽があまり出ないので気温も上がらずにかなり寒いなかでの登山となりました。

真夜中の樹海のジャングルを抜けるのに、ぐちゃぐちゃの泥の川のような、窪みのような、なんとなく道のようなところを這いつくばって、樹海を抜けるのに3時間くらいかかってしまいました・・・。

近年ない厳しい登山になりました。

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でも、でも、行かねばならぬ~
なぜなら世界最高の場所が待っているんですから(笑)



そして、、



足元がきびしい中を登り続けること6時間半




こんな素晴らしい景色が僕を待ってました。

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雲海を真っ赤に染めるサンライズ


もうこの山には何回登っただろう・・・

でもはじめてだよ、こんなの。


奇跡のような景色。

しかも独り占め。


今回は大変だったけど頑張って登ってよかった。

おNewのトレッキングシューズは大変なことになったけどね(笑)

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山頂で1時間の瞑想とチャージで霊的パワー満タン!

半年ぶりに掘り起こしたクリスタルも、これ凄いね。
最高の状態で、ほんとに強烈!



よし、ミッション成功!!

さあ日本に帰ろう!




バリ島 ウブドより
白石

smiling again