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死 ~魂の行方~ part1

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人は死ぬとどうなるのか?

きっと誰もが考えたことがある疑問でしょう。

生前、善い行いをしていたものは天国へ、悪いことをしていた人は地獄へ。
我々は幼いころからこう聞かされ、天国へ行くために道徳を学んできました。

いまはドクドクと元気に働いている心臓が、そっと活動を止めたとき、いったいその1秒先にはどのような世界が我々をまっているのでしょうか?

魂と肉体の関係性を語るなかで避けては通れない“死”という問題。

『魂の智見』

今回からの新しいテーマとして、“死 ~魂の行方~”と題してお話をしていきたいと思っています。


ちょっとテーマが重いなと感じる方は飛ばしていただいて構いませんが、“死”は誰もがいつかは体験することになる人生の2大イベントのひとつです。
生きることと死ぬことはセットですから、生きている以上は誰もが避けることができないのが“死”というもの。

“いつかくるその日”を我々はどう受け入れ、そしてどう迎えるのか。

この難問を元気に過ごせている今だからこそ、一度じっくりと考えてみるのです。
とくに身近な方が亡くなり、悲しみの縁から逃れられずにいる方には知ってほしいことでもあります。

そして死ぬことは恐怖だと感じる人間という生命体が、いかに狭い枠のなかで生きているのかも合わせて知っておくべきでしょう。


ちなみに僕は自分が死ぬことにまったく恐怖を感じることはありません。
こういう仕事を続けていると人の死に直面することは多くありますし、死がもたらす悲しみや憤りは覚えますが、自分が死ぬことに対して怖いという感覚は持ったことはないのです。

たしかに“死”はすべてを奪い取っていく最悪の現象でしょう。多くの人が出来ることならば一生係りたくないと思っているはずです。
僕だって死にたくはありませんし、今の人生をもう少し楽しみたいと思っています。

しかし、もし仮に、明日人生の幕を閉じることになるという運命だったならば、それはそれで受け入れるしかないとも思っています。
そこに恐怖はありません。がっかりはすると思いますが、我を失うほどに錯乱することもないでしょう。
大切な人に別れの挨拶をし、しずかにその瞬間を待つことになります。

なぜ僕が“死”に対して、恐怖を感じないのか?

それは“死”という現象が、終わりではなく、始まりであることを知っているからに他ありません。
このブログSSSでも何度も魂と肉体の関係性を説明してきましたが、有限な肉体に対して、魂は無限であるということ。
“死”は魂にとってひとつの区切りであって、滅亡ではありません。
古い肉体を脱皮し、新たな肉体を身にまとうことを永遠と繰り返す、輪廻(りんね)の境界線こそが、“生”であり“死”であるのです。

数年前ですが、ある方が息を引き取る瞬間に立ち会ったことがあります。
その方はガンを患い、最後は意識不明の状態のまま生命維持装置をつけた状態で息を引き取りましたが、僕はその方の魂がすでに肉体を離れ、転生の段階に入っていることがわかっていました。
しかしそのことを家族の方に告げることはさすがに出来ませんでしたが、僕は冷静にその魂の脱皮をみつめながら、ほとばしる魂の光を浴びていました。

朽ち果てていく肉体は血色が消えみるみる白みがかっていきますが、魂は逆に燦々と光を放ち、生命力に満ちあふれ、力強く、そして美しく旅立っていくのです。

悲しみに崩れ落ちて亡骸にしがみつく遺族のかたわらで、その光輝く魂のエネルギーはすでに次なる旅をスタートさせているのです。

僕はそういった二つの非なる光景を目の当たりにして、“死”は終わりなのか、それとも始まりなのかを悩んだ日もありましたが、この仕事を続けてきて今思うことは、“死”は決して終わりではなく、ひとつの卒業であるということ。

そしてそれは同時に新たな生命の誕生を意味する入学式でもあるのです。

それこそが“転生”
つまり生まれ変わるということ。

古い肉体を脱ぎ捨て、あらたな肉体の元で生命の光を宿す。
魂が尊く神秘であリ続ける理由が、この瞬間に凝縮しています。

しかしこの転生は、すべての魂が成功させることが出来るものではありません。

前世や後世の世界というものは、今現在の魂の状態と密接につながっていて、その一連のつながりは、すべて今、私たちが発するカルマの存在で左右されます。

つまり転生の成功の可否は、今の生き方がおおいに関係してくるのです。

誰もが死んだあとは天国に行きたいと願っているでしょう。
しかし俗に言われている“天国”と“地獄”の存在。

僕は、天国や地獄という区切られた場所があることは明確に否定します。
が、転生の成功や失敗が、魂にとっての天国と地獄にあたると考えているのです。

死後、なにごともなく新たな生命体へと転生がなされれば天国であり、転生がうまくいかずに現世に漂ってしまう浮遊状態の魂は地獄であるということ。

世の中には転生できずに何十万年と浮遊している魂が多く存在しているのです。

転生は誰もが出来るのか?
人間以外に転生することはあるのか?
転生のタイミングは?
カルマと転生の関係

次回以降は、この転生について触れていきたいと思います。



東京より
白石

よい出会いは魂がおしえてくれる part5

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はい、また例のごとく間があきました! お待たせしました白石です。

相変わらずやる事だけはたくさんあって、思うようにブログに向き合うことが出来ていませんが、まあ長い読者の皆さんはすでに諦めていると思いますが(笑)、最近の読者の方は「白石はなんてやる気のないやつだ!」とお怒りかもしれません。
ごめんなさい、ごもっともです。はやく慣れてください(笑)


さて、今回は4か月ぶり!の続きになります。
よい出会いは魂がおしえてくれる part5

長かったねー、8カ月におよんだ長編もついに今回でやっとやっと終わりということです。
引っ張りすぎて誰も着いてきていないという話しもありますが、それはそれで必要な人に渡ることになるのでいいかなと。。。

さあPart4の終わりでサラッと書いた、初対面の時に足の裏が熱くなる人はあなたにとって“悪い人”という真意についてです。
ここを解説して、この章を終わりにしたいと思います。


一応、前回までの内容を忘れてしまった人のために簡単に振り返ってみると・・

良縁に恵まれない人に隠されたロジックとはいったい何なのか?
それは確率論や第一印象の問題ではなく、その人の本質を見極める目をもっていないから。
その原因は、人間がかつて持っていた野性的な勘覚が退化してしまったことが原因である。
しかし現代人にも知られざる野生の力を感じ取る部位が残っている。それが足の裏。
足の裏の体感温度を感じとることで、魂の善し悪しを見極めることが可能なのだ。


といった感じです。かなり簡単ですが。
もし完全に忘れてしまった方や、最近ご覧になられたばかりの方は、ここを読む前に下のリンクから読んで来てください。
待ってますから。

よい出会いは魂がおしえてくれる part1
よい出会いは魂がおしえてくれる part2
よい出会いは魂がおしえてくれる part3
よい出会いは魂がおしえてくれる part4

はい、読んできましたね。
それでは続きです。


なぜ、初対面で相性の悪い人と対面したときに、足の裏が熱くなるのでしょうか?
それはあなたの魂が喧嘩をするからなんです。

「えっ私は喧嘩は大嫌いですし、もし喧嘩したらすぐに謝るほうです。」

こう思った人もいるかもしれませんね。

でもそれはあなたの脳内での考えに過ぎません。
魂の性質とは違い、単に理性が脳内で働いているだけなのです。

普段温厚でめったに喧嘩なんかしない人であっても、魂はかんけいなく喧嘩をするのです。
魂というのは意外に喧嘩っ早いんです(笑)

たとえば理性の少ない野生動物などは、何かにつけて喧嘩をよくしますよね。縄張り争いだったり、異性をめぐる争いだったり、餌をめぐる戦いだったり。
野生動物には喧嘩をすることで欲求を満たしたり、自分を守ったりする本能が備わっているのです。
つまり魂からの指令が理性という脳内フィルタで濾されることなく、ダイレクトに表に出ていくということです。

しかし人間の場合は脳が発達していますから、本能のおもむくままに行動する人はほぼいません。
脳の指令で本能さえもセーブしコントロールする術を長い年月で身につけてきたのです。

そういった魂の性質を知ったうえで、初対面の人と会った時の魂の状況を解説します。

まず初めての人に会った時、おたがいに相手の魂の波長を測りあうために探り合いをします。
そしてこの段階で安全だと感じ取れば、その後はおだやかなまま推移します。これはお互いに波長が合う、もしくは危険性がないと判断しあった場合です。

しかし中にはそうでない人と会うこともあります。

自分の魂と同期しない波長の魂と接触したときに、魂は一気にヒートアップし、お互いを遠ざけようとぶつかり合います。
このぶつけ合う様はまさに喧嘩そのもので、場合によっては削りあいにまで発展し、黒カルマを生みだすようなことも珍しくありません。

たとえば犬を飼っている方は毎日散歩に出かけると思いますが、その道中で、よその散歩中の犬に会うことってよくある光景でしょう。
その時に、犬はお互いのお尻などの匂いを嗅ぎあいますが、穏やかに仲良くしている犬のときもあれば、吠えて噛みつきそうになる犬に会うこともあると思います。

まさに人間の対面時も、こういったような光景が魂の世界では繰り広げられているのです。

そしてその魂のぶつかり合いが起こっているとき、現代人が唯一感じ取れる部分、それが足の裏なんです。
足の裏はいまだに野性的な部位ですから魂の異常を察知することができます。その異常とは体感温度です。

簡単にそのロジックを説明すると、魂が激しくぶつかり合うと、生命エネルギーのプラーナの流れが乱れ、ナーディやチャクラと呼ばれるエネルギーの通り道内のエネルギー圧力が高まります。
その圧力が身体の中で高まることで、本能的な感覚が残る足の裏で熱として感じることができるようになるのです。


ただ、魂が殴り合っているからといって、このときに肉体までも殴り合いをしているのかというと全くそうではありません。ここが犬と人間の違うところです。
意外にもおだやかに挨拶しあったり、笑顔で会話をしたりしているのです。
では脳内ではどうかと言いますと、まったく強い嫌悪感も感じていないことも珍しくありません。それどころかこの人は良い人だとか、尊敬できる人だとかすら思ってしまうこともあるのです。魂は殴り合っているのに(笑)

ここが人間関係で間違いを起こしてしまう現代人の防御能力の欠如の部分です。
魂は感じ取っていても、肉体(脳)が邪魔してしまうのです。本能を理性でくるみこんでしまう。

ですから、自分は理性がある、真面目で秩序的で馬鹿が出来なくて・・
実はこういう人ほど人間関係で間違いを起こしやすいのです。人に騙されたり、いじめられたり、おとしめられたり。

意外にのほほんとしてる、いわゆる天然だと言われるような人の方が、総じて人間関係は良好な場合が多いです。
それは脳内フィルタの目が粗く、魂からの本能的な指令が肉体に伝わりやすいからです。

こういった初対面時の魂の波長の相違は5%くらいの確率で起こると考えておいたほうがいいでしょう。
これは統計を取ったわけではないのですが、なぜその数字を出せるのかと言いますと、波長が合う合わないというのは、実は健康な魂同士であればまず起こらない問題だからなのです。

やせて黒カルマを多く生みだしているような不健康な魂との接触が波長の相違を生み、魂は防御のために喧嘩します。
つまり魂がこわれてしまっている人が、今の日本には5%くらいいるということなんです。

20人に一人ですから、これは無視できないほど多い数字だと思います。
たとえば進学したとき、職場が変わったときなどの環境変化にともなって、初めて会う人ってとても多いですよね。
また仕事上の付き合いや人の紹介など、私たちは普段意識せずとも様々な人たちと会うことになります。
家に閉じこもっていない限りは、皆さんかなりの初対面を経験しているのではないでしょうか?

でもこれは社会人にとっては避けては通れないリスクですから、我々は受け入れなければなりません。

いかにこのリスクを回避するのか?
この術を身につけることができれば、もっと快適に毎日を過ごすことが出来るようになるでしょう。


はい、どうですか?わかりましたか?
初対面の人に会ったら、顔よりも足の裏が大切なんですよ(笑)

足の裏が熱くならない人とだけ付き合うようにすれば、あなたの人間関係の構築はだいぶ楽になるのです。


ただこの話しには落とし穴があります。

それはあなた自身が5%の人間でないこと。

5%の人は誰と会っても足の裏が熱く感じません。魂が焼けすぎて炭のようになっているからです。
こうなってからではいろいろ大変です。


魂に柔らかさと潤いを。


なんかのCMみたいな終わりかただな(笑)



東京より
白石

2016年もバリ島アグン山でスタート

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アグン頂よりアンダマン海を望む


もう1月も終わろうとしていますが、
今年も例年通りの1月のアグン登頂を成し遂げることができ、無事に帰国できたことを読者のみなさんにご報告いたします。

昨年からつづく近隣火山の活発化による影響も考えられましたが、そちらは特に問題はなく予定通り。アタック当日は天候にも恵まれ、心地よい環境下で滞りなく回収を終えることができました。

ただ、直前にジャカルタでテロが発生した影響で空港はいつもより厳戒態勢でそちらのほうが大変でしたね。(大量の水晶や登山グッズなどを持っているのでいちいち説明が大変)

まあそれでも何とか無事に帰国し、製作と発送を終えて、ようやくひと息つけたところです。(アグンクリスタルをご注文下さった方は早い人は今日到着しているとおもいます。最高にいい出来ですよ。)

さあ今年も忙しそうですが、まあ焦らずペース良くいきますよ!


東京より
白石

あなたの人生は何秒?

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さあ、気がつけば2015年も終わろうとしています。

どうも年々時が経つのが速く感じるようになってきて、あっというまに歳をとっていくのがしゃくですが、まあ仕方ありませんね。
良くとらえれば日々充実しているということでしょう(笑)


そうそう先日25日のクリスマスの夜は、「魂の大実験」のラストナイトでした。
今まで毎月実験に参加くださった皆様、感想をフィードバックしてくださった皆様、どうもありがとうございました。
おかげさまで素晴らしいクリスマスプレゼントになり大満足しています。
実験結果をまとめましたら、またこの場で発表させていただきたいと思います。


さて今日のエントリですが、当初は『よい出会いは魂がおしえてくれる part5』にしようかと思ったのですが、せっかく1年の終わりということですから、今年の締めになるような、そして来年のスタートを心新たに切れるような、そんなお話をさせて頂こうかと思います。



突然ですが、あなたの人生は何秒間あるのか?

考えたことありますか?

あなたが生命体として今存在しているということは、おぎゃーと誕生したその“瞬間”が確かにあったということです。
そして、その生命が幕を閉じる“瞬間”も、未来にもちろんあるのです。

たとえば世界のどこかで2016年の1月1日00時00分00秒に誕生した赤ちゃんがいたとします。
また仮に、その子は2096年1月1日00時00分00秒で人生を終えました。ぴったり80歳の人生でした。

80年という時間は、月数に換算すると960ヶ月、日数だと29,220日、時間で701,280時間、分で42,076,800分、秒で2,524,608,000秒です。

これ凄いと思いませんか?すべての生命の長さは1秒と狂わずにしっかりと存在し、記録できるのです。
人の場合は桁が多いのでピンと来ないかもしれませんが、人生80年だとすると秒換算では約25億秒ということですね。

これは言うなれば、生まれた時にもらった25億枚の人生体験チケットを1秒に1枚(1ライフ)ずつ切り離しているということです。

今こうして僕のブログを読んでいる瞬間も、寝ていても、食べていても、働いていても、ボーとしていても、僕も皆さんも1秒に1ライフずつ人生体験チケットは減っているのです。

もちろん今回は例として人生80年としての計算ですが、神様が生まれたときに自分に何ライフくれたのかは、チケットが無くなるその瞬間までわかりません。もしかしたらあと10枚で無くなってしまうかもしれないのです。

まあそれは極端かもしれませんが(笑)
そういう風に考えてみると、今この瞬間の1秒の価値がとたんに高いものに思えてきますよね。

世の中の人はなぜか、自分だけはいつまでも平穏無事に過ごせるものだという根拠のない自信にあふれた人が多いのです。
時間はまだまだ無限に流れてくる、そう思い込んでいるのです。

ですから“今”という1秒に価値を見出しません。
「今」できることは「明日」に、明日になったら「明後日」に、そして「いつか」へ・・・

昨日の自分も、今の自分も、明日の自分も、1年後の自分も並列に考えています。
同じ自分だと信じています。


もしあなたがそういう考えだとしたら、それはとんでもない間違いです。

生命体は1秒ごとに生まれ変わっていると考えなければなりません。

1秒前の自分と、今の自分はまるで違う自分。1秒後の自分もまた違う自分です。
見た目も考えも機能的にもほぼ変わっていないように見えますが、いえいえ確実に1秒ごとにライフ(生命力)を減らしながら劣化し、生まれ変わっているのです。

新鮮なフルーツを2~3カ月置きっぱなしにしていたらどうなりますか?
もし2つを並べることが出来たなら、その姿かたちだけでなく、臭いも味も比較にならないくらいに変化していることでしょう。
これはフルーツという存在が、1秒ごとに1ライフを浪費しながら、確実にその生命力を低下させていったからです。


しかしライフの消費は生命体としてこの世に誕生した運命といえますから、僕たちは受け入れなければなりません。

その上で、限られた時間をどうとらえて、どう使うのか?
ここは各々の考え方ひとつに任されています。


「別に自分は何とも思わない。自然にその日が来るのを待つ。」

たしかに人間、死ぬときは何も持っていけません。
そう考えると、生きているときにあくせくしても結局は“無”ではないか。という考えもあるでしょう。
これも生き方です。


「与えられた時間を自分なりに有効に使い、なにかしら生きた証を刻みたい。」

物やお金はたしかに持っていけないですが、人生をまっとうしたという誇り、プライドは持っていくことが出来ます。
今に目的を与えて一生懸命に生きてみる。そして何かを成し遂げる人生を歩みたい。
これも生き方なのです。


僕が最終的に他人の時間の使い方に口をはさむことは出来ませんが、色々と考える切っ掛けは与えることが出来ます。
そして良いと思える方向へ導いてあげるような、遠回りなヒントくらいは与えてあげれるでしょう。


僕の2015年は、あっという間に過ぎ去っていきました。
約3120万ライフ消費した計算になります。

もちろん皆さんも約3120万ライフ目減りしました。

さてこの3120万秒、僕はしっかりと意味を持って使えたでしょうか?
皆さんはどうでしたか?

そんなことを考えながら、2016年を厳かに迎えようと思います。


みなさん善いお年を
来年またここでお逢いしましょう(笑)



東京より
白石

魂が健康であれば人生の谷は苦ではない

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11月26日の実験に参加したみなさんはお疲れ様でした。

実は僕は25日~今日まで私用でインドに行っていました。(今回の記事は帰りの飛行機の中で書きました)

インドは今回で2回目なんですが、前回は10数年前だったので経済発展のスピードに驚かされました!
ムンバイにそびえ立つビルの高さや数はもちろんのこと、走っている車や、人々の服装もソフィスティケートされてきていて、今、世界で一番勢いがある国だと実感しましたね。

今回の旅は、大都市ムンバイからとある地方町への2泊4日の弾丸行程だったのですが、26日はとんでもない田舎に滞在していたもので(笑)、そこはネット環境もない上に電波状況も悪く、まったくのお手上げ状態でコメントを書き込むことが出来なかったのですが、メールやコメントを残してくれた方々ありがとうございます。

次回はクリスマス12月25日が最終実験日になります。
クリスマスの夜に無欲になり「皆の幸せを願う」という、1年の終わり方はいいですね。
僕も一参加者として願おうと思います。


さて、このSSSを開設してから3年を過ぎ、いままで魂のことや、生き方のヒント的なことなどをあれこれ書いてきました。

最近は「本当に生き方が楽になった。」「いまが一番笑ってすごせています。」などといったメールをたくさん頂けるようになってきて、「忙しいなかでも何とか続けてきて良かったな。」と本当に思います。

僕のブログは文章が多くて読むのも大変かもしれませんが、それでもしっかりと読んでくれて、自分の中で咀嚼し、普段から実践に移してくれている人は、確実に魂の硬化を遅らせることが出来ていて、本当に健康を取り戻してきているんですよね。

たとえば、湧き上がる怒りを治めるですとか、魂が危険にさらされるような場所に近づかないですとか、ケチな思考に捕らわれないようにするですとか、普段の生活の中で魂のために実践できることは意外に多いものです。

何も気を付けてない人と年単位で比べてみれば、そういった何気ないことの積み重ねが大きな開きとなっていくのです。


人生の道は平坦ではありませんから、誰にでも良いことも悪いことも起こります。

今現在、生きていくことが苦しいと思っている人がいるならば、それは谷間にいるからです。
暗い谷底だからと下を向き、とぼとぼ歩いては立ち止まり、後ろを振り返っては後悔し、またとぼとぼ歩き始める。

だからいつまでも谷を抜けないのです。

魂が健康な人は、谷間を歩いていても下を向きません。
頭を上げてしっかりと先を見ることが出来ます。魂がタフになり簡単にめげなくなっているのです。

そして“生きる”ということを前向きにとらえるようになっています。
最悪の状況であっても自分が進むべき山の頂が見えているので、恐怖もなく、明日に希望があります。

同じ谷間にいるとして、頭を上げるか下げるかの差ですが、この差が実はとても大きいのです。

しかし魂が弱ってくると、こうしたことは頭では分かっていても実践できなくなっていきます。
身体が重く、行動力は薄れ、気持ちばかりが焦ります。
過去の良かったころの自分の記憶と今の自分の差に苦しみ、すべてを投げ出して終わらせたいとさえ思うようになると、それは魂がいっぱいいっぱいの証拠です。

魂が健康であれば、前へ進むために一歩を出すという人生の基本でつまづくことはまずありません。特に意識して考えなくても実践できてしまうのです。

魂の健康の差が、人生において苦しみの量や、笑顔の数を左右してしまうということです。


では現状、魂の健康が保てていて、特に悪いこともなく平穏無事に過ごせている人は何も気を付けることはないのでしょうか?

いえ、暗い谷間を抜けて、明るい山道を歩いているからと言って油断してはいけません。

今が好調な人が足を滑らせてしまうこともあるのです。

その一番の原因、それは“欲”です。


人は暗い谷に下った時には気分がすぐれず、自分ほど不幸な人間はいないとさえ思います。
しかし山の上に出ると、谷での出来事のことなどすぐに忘れて、気分が高揚し、自分はもっと高みに行けるのではないかと思います。

もちろん向上心をもって進んでいくことは悪いことではありません。
ただ、欲を出して無理に高みに登ろうとすると足元がおろそかになり、簡単な窪みで足を取られ谷底に転げ落ちます。
高い山と深い谷はセットですから気をつけねばなりません。

人生において大切なことは、今の1歩を確実に踏みしめることです。
何事にもケチにならずに、今自分に出来ることを疎かにせずにこなすこと。


人生の高みというのは気付いたらいる場所であって、行こうと思っていく場所ではありません。


台湾上空より
白石

smiling again